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ガチャッ
暗闇の中に沈んでいた意識が突然引き戻される。
彼が帰って来た!
ベッドから上半身だけ起き上がり玄関の方をちらりと覗くと、部屋に入って来たのは一人の女だった。え、誰?驚きのあまり声を出せずに呆然としていると、女は手に持っていたスーパーの袋の中身を冷蔵庫に入れ始めた。まだ私がいることに気付いていないようだ。女の顔ははっきりとは見えなかったが、どこかで見たことがあるような気がした。どうする。どうすればいい。頭に一気に血が上り心臓は文字通り口から飛び出しそうなほど強く脈打った。そして私は咄嗟にベッドの下に隠れた。部屋を間違えてる?いや、彼女は鍵を開けて入ってきた。私の他にも女がいて合鍵まで渡していたということ?すっかり混乱して考えがまとまらなかった。思い切って女の前に出ていき、「あなた誰?」と問いただしてみることも考えたが、隠れてしまった以上不法侵入したのはこちらのように思えて、今さらそんな勇気が出なかった。今は息を潜め、女の様子を探ることしかできない。
キッチンの方からトントントントンと野菜を刻む音が聞こえてくる。女は何か料理を始めたようだ。包丁の軽快なリズムからかなり手慣れているように思える。トントントントントントントントントントントントントントントントントントントントン。野菜を刻む音が永遠に続く地獄のような時間。まるでこの次は私の身体がまな板の上で切り刻まれるような気がした。ガチャガチャと鍋を取り出す音やジュージューと炒める音。窓の外では救急車のサイレンが通り過ぎて行った。いつまでもここに隠れているわけにもいかないし、なんとか女に見つからずに家を出る方法を考えねばならない。リビングから玄関までたどり着くにはどうやってもキッチンの脇を通らなければならない間取りだ。そうなると、女がトイレに入った瞬間に逃げ出すぐらいしか脱出のチャンスはないが、トイレは玄関の左手前にあるので音を立てないようゆっくり移動していたらトイレから出てきた女と鉢合わせてしまう危険性がある。ここぞというタイミングで走って逃げるしかないだろう。
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