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歌っている。
うれしそうに楽しそうに、明るい笑みを浮かべて。
空になった赤いマルボロの箱。一緒にため息も握りつぶす。
水曜の夜。
いつもなら見向きもしない音楽番組。
今話題のシンガー、一条晴輝が、ついこの前出たばかりだという新曲を歌っている。
なんで俺なんだ、と何度も思ったことをまた思う。
俺、村上静也は、小さな警備会社に勤めている。イベント会場警備専門のうちの会社に、どういうわけか一条晴輝の全国ツアー中、移動の補助をしてくれる人が欲しいと依頼が来た。で、俺が派遣されることになった。
俺は入社して二年、仕事にもすっかり慣れた。でもそれってSPってことじゃないのか? やったこともない一対一の警備、それも相手は超人気シンガーなんだから、しかるべき会社に頼むか、せめてベテランを選ぶべきじゃないのか?
煙草をビールの空き缶の上でぐしゃぐしゃもみ消し、画面に視線を戻す。
一条晴輝はキーボードを前に座り、弾きながらマイクにすっかり下唇をつけて歌っている。まるでマイクを食べているみたいだ。両手がふさがっているから、そうしてマイクの位置を確認している必要があるんだろう。
サングラス越しに見える瞳は、微動だにしない。しっかりと開かれているのに、どこも見てはいない。
見えないからだ。
一条晴輝は、全盲のシンガーだった。
数日後、俺は上司と二人、一条晴輝の所属事務所を打ちあわせのために訪れた。
「本当にここなんですか?」
安いスーツの窮屈な肩を気にしながら車を降り、事務所が入っているビルを見上げる。
しゃれた作りのビルに挟まれて気まずそうな、陰気な感じさえする、三階建ての薄汚れたビル。その二階が、一条晴輝の所属するプロダクションのオフィスになっているらしい。
「プロダクションなんてどこもこんなもんだろ。いやー、楽しみだなあ。一条晴輝に会えるなんて役得だよなあ」
一人娘が一条晴輝のファンだという課長はほくほく顔だ。無邪気というか能天気というか。まいるよな。
俺はそっとため息をつきながら、古いエレベーターの呼び出しボタンを押した。
芸能界に興味がない、好きな歌手もタレントもいない俺には、年がいもなく興奮してる課長が理解できない。
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