押入れの中

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押入れの中

「何処に逃げたって必ず見つけ出してやるから」  腐った魚のような目を大きく見開いて、俺の部屋のベランダの下であの女は甲高い声で笑っている。    嫌な汗をぐっしょりとかいて目を覚ました。よかった。夢だったのか。  悪夢だと思った。ストーカーなんて言葉は俺には無縁だと思っていた。だいたい俺はイケメンでもなんでもない。何処にでもいる平平凡凡なフリーターだ。あの女と出会ったきっかけは些細なことだった。道ですれ違った時、腕がぶつかり、女がよろけて倒れそうになったので急いで身体を支えて謝った。それだけだ。薄汚れたワカメみたいに絡まった長い髪に腫れぼったい目をしたその女は、蜂蜜をねぶるみたいに舌で分厚い唇を舐めまわしながら俺を見てねっとりと笑った。 「何でもないです。ありがとう」  そう言った途端、いきなり俺の手を握ってきた女の掌はベトベトと冷たくて、俺は急いで手を引っ込めて逃げるようにその場を離れた。後をつけてきた様子はなかったのだが、数日後、女はケーキの箱を持ってアパートの入り口で待っていた。 「あの、この間はありがとうございました。これはお礼です。受け取ってください」     
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