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鈴が生まれた時から、傍にいるのが当たり前だった。鈴が自分を呼べば、傍へ駆けつけるのが当たり前だった。小さな手が伸ばされた時、自分の両手が塞がっていれば酷く悔やんだ。
一馬は自分を犠牲にしている訳ではない。鈴に尽くしている訳ではない。鈴が一馬を望んでくれる以上に、一馬が鈴を望んでいるだけ。一馬は追って来る鈴を待ってやっているのではない。鈴が駆けて来るのを待ちわびているだけ。
いつからなのか、一馬にはもう分からない。
可愛い、うれしい、と受け入れ続けた「好き」は、一馬の胸の奥の奥へと流し込まれて、気がついた頃には妙な形で凝固してしまっていた。
後はもう、鈴が一馬を呼んでくれる度、少しずつかさを増していくだけ。
***
テレビ画面の下部には、不思議な語感でカタカナの羅列が四つ並んでいる。内二つが、実在する生物の和名なのだそうだ。
一馬の膝の上で、リモコンをぎゅうぎゅう握りしめて、鈴が頻りに首をかしげている。
「スベスベマンジュウガニはいるんだよ。知ってるもん。本にのってたよ。」
「へえ。旨そうな名前だな。」
「食べられないよ。毒あるんだって。」
「何だ。こしあんでも入ってるのかと思ったのに。」
「でも、丸くてかわいかったよ。」
もう一つの正解はどれなのか、脚をぷらぷら揺らして、鈴は再び悩み始める。
ブーブーと微かな振動音が聞こえた。ソファ横のバッグの中でケータイが自己主張している。
「ちょっとごめんな。」
落とさないように鈴の腹に手を回すと、体を傾けてバッグを探る。手に取ってすぐぱっと画面を表示する。
友人が、サイクリングに行くぞ! と参加者を募っている。確か彼はつい昨日も、発表がどうだ資料がなんだと騒いでいたはずなのだが。すぐにでも飛び出して行きたいのか、候補も用意せずに次の日曜日を指定している。
一馬はさらっと返事を打つ。その日はすでに先約がある。
――デートなんで、パス。
「ロリコン」の四文字がポコポコと画面を埋めていくのを無視して、一馬はケータイを放った。ぽすっと間の抜けた音をたててバッグの上に着地する。
鈴がこちらを振り仰いだ。
「カズ兄? お話いいの?」
「ん? いいのいいの。」
ぐりぐりと頭のてっぺんを顎でえぐる。「やめてー。」と鈴がきゃらきゃら笑いながら一馬の顔を押し返す。
鈴が望んでくれる限り、一馬はこの場所から動かない。
END
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