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桃はまだ、花びらひとつ落としたばかりの朝でした。昨晩のひえた風がよほどこたえたと見え、桃の木は大きく肩をゆすって、落ちつきませんでしたので、娘の花たちは不安げに、いつもよりずっと早く起こされたのです。冬がたびたび引き返してきては(探し物でもあるのでしょうか)、山底をさらってゆくせいでした。
川辺の小さな花の影まで身をすくませて泣いたものですから、まだ十歳のヨタはどうにも我慢ならなくなって、
「かえりたいなあ」
と、ぐずぐずつぶやきました。深い山です。苔むした岩や木々は息づかいまで古めかしく、湧き水は澄み、いっとう短い家柄の獣たちでさえ、自分らがいつからここに棲んでいるのか知りませんでした。けれども、曾祖父の祖父の時代には、もう棲んでいたようなのです。
ヨタのお母さんは、先ごろ、妹を身ごもったところでしたから、ひどくわがままになって、まだ春だというのに桃の実を欲しがって聞きません。お父さんもそうそう帰って来られないものだから、ヨタはしかたなくひとりで探しにきたのです。
ヨタがやってきた時、そのおさない指がひび割れているのを見、頬が青ざめているのを見れば、心持ちのやさしいことはすぐに知れたでしょう。だというのに、桃の木はあんまり大げさにふるえたものですから、かえってヨタのほうが、怯えてうずくまってしまいました。
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