プロローグ

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雛段教室に入ると、一番後ろの席を陣取ったイクが、手鏡を持つ手を振った。 イクは口をぽっかり間抜けに開けて、必死に付けまつ毛の上からマスカラを塗りたぐっている。 講義十分前なのに、人はまばらだった。 「今日朝帰り。シャワー浴びて、ダッシュで来た。もう仕事辞めたい」 鏡から目を離さないイクは、挨拶もせず言う。仕事の文句は耳にタコだった。 「辞めれば? 学費もどうにかなってるんでしょ?」 「まあ。でもうちの親父いつまた会社辞めるか分かんないから」 イクの源氏名は「乙女」だ。 それを初めて聞いた時は、笑いの神が私の脇腹をこちょこちょとくすぐり回して、堪えるのに必死だった。 イクは雑で喧嘩っ早い上に、笑い方には品の欠片もない。 原色が喧嘩するサーフファッションとこんがり小麦肌のイクには、乙女の対義語があるならそれを源氏名にお勧めしたい。 「チヒロとユッチは?」 イクはやっと鏡を置いて、マスカラをポーチにしまいながら訊いた。 「チヒロは遅刻だって。ユッチは知らなーい」 四人グループは結構便利だった。 誰かしらは必ず学校にいるし、イクと自己中なチヒロがぶつかり合っても、私は知らん顔でユッチと一緒にいればいい。 服の系統や化粧の趣味が合うのはユッチで、買い物に行くのならユッチが一番いいけれど、ユッチには悪い癖があるから面倒だった。 イクもチヒロも我を通すのが好きだけど、私やユッチが決して張り合わずに笑っていれば、大体の場合は丸く納まる。 一番我が強くて、誰よりも自己中なのは実のところ私だけど、そうして適当にしていれば大学は過ごしやすいし、楽しむ努力さえすればパラダイス。 いちいち本気になって、合わせられない価値観を共有しようとなんてしない。 私は自分の中にあるグロテスクな部分に蓋をして、体中をピンク色の壁紙に貼り替え、スワロフスキーとかのキラキラをそこに敷き詰める。 そうすれば灰色のビルでしかない大学もミラーボールで輝きだす。そういう主義。
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