第一話

6/6
1308人が本棚に入れています
本棚に追加
/115ページ
上の従姉(いとこ)典江(のりえ)は、夫と子どもたちと満洲にいるので、この家にはいない。 婿養子に入った従姉の夫は、この地の名門校である廣島一中の先生だったのだが、生徒に「アカ」を教えたとかいう密告があって、憲兵に引っ張られそうになった。 だから、伯父が方々に手を回して、内地に比べて風紀の緩い満洲へ渡る手はずを整えたそうだ。 父が声を潜めて母に話していたのを聞いたことがある。 わたしはうちの親戚にそんな恐ろしい人がいるなんて、とびっくりした。 この本は、もしかしてその人が置いていったものかもしれない。 国の統制下にある水産会社に勤める、お堅い気質の伯父が読む本だとはとても思えなかった。 だけど、こんな非国民の塊のような中身の本が、つい何年か前まではちゃんと出版され、本屋に並んでいたかと思うと信じられない気がする。 わたしがのんびりとこんな本を読んでいる間にも、大陸でも南方でも、たくさんの兵隊さんが外地で闘っている。 もしかしたら、たった今、内地でも禍々(まがまが)しい米軍の空襲に(さら)されているところがあるかもしれない。 だが、そんな非常時にもかかわらず、わたしは谷崎の耽美な世界に引き込まれている。 不意に、玄関で(おとな)いの声がした。
/115ページ

最初のコメントを投稿しよう!