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上の従姉の典江は、夫と子どもたちと満洲にいるので、この家にはいない。
婿養子に入った従姉の夫は、この地の名門校である廣島一中の先生だったのだが、生徒に「アカ」を教えたとかいう密告があって、憲兵に引っ張られそうになった。
だから、伯父が方々に手を回して、内地に比べて風紀の緩い満洲へ渡る手はずを整えたそうだ。
父が声を潜めて母に話していたのを聞いたことがある。
わたしはうちの親戚にそんな恐ろしい人がいるなんて、とびっくりした。
この本は、もしかしてその人が置いていったものかもしれない。
国の統制下にある水産会社に勤める、お堅い気質の伯父が読む本だとはとても思えなかった。
だけど、こんな非国民の塊のような中身の本が、つい何年か前まではちゃんと出版され、本屋に並んでいたかと思うと信じられない気がする。
わたしがのんびりとこんな本を読んでいる間にも、大陸でも南方でも、たくさんの兵隊さんが外地で闘っている。
もしかしたら、たった今、内地でも禍々しい米軍の空襲に曝されているところがあるかもしれない。
だが、そんな非常時にもかかわらず、わたしは谷崎の耽美な世界に引き込まれている。
不意に、玄関で訪いの声がした。
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