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二人で買ったマンションから崇の荷物が運び出され、私は一人では広すぎるそこを貸し出すことにした。
新しい部屋は1LDKで、ひとり暮らしにはちょうど良かった。
財産分与も弁護士を通して無事終わった。
あの別れの日から、もう1年経っていた。
仕事帰り、私はふと思い出して件の隠れ家的喫茶店に入った。
あの時は、客がいなかったとはいえ、水をぶちまけたり大声で叫んだり、挙げ句の果てには万札を振り撒いて店を出たのだ。
にもかかわらず、お詫びもしていなかった。
マスターは私を見るとニコリと笑って以前と同じように、いらっしゃいませ、と言った。
「その節は、大変ご迷惑をおかけしました。
お詫びがおそくなり、申し訳ありません」
「いえいえ。あの時は、大変でしたね。もう、生活は落ち着かれましたか?」
おかげさまで、とまた頭を下げる。
カウンター席に座ると、いい香りのコーヒーが出された。
「この香り、落ち着きます」
「それはよかった」
マスターはそう言って、カウンターに封筒を置いた。
「差し出がましいとは思いますが」
前振りをして、マスターは続けた。
「あの時の300万です。
元ご主人に関わるものは、見るのも辛いと思います。
でも、お金は捨てるべきじゃなかった。
この先、何があるかわかりません。
元ご主人から、と考えて辛くなるなら、私からのお見舞金だとでも考えて下さい」
私は驚いて封筒の中身を見た。
多少撚れてはいるが、中には間違いなく1万円札の束が入っている。
「300枚、集めてくださったんですか?」
マスターは微笑むだけで何も言わない。
「ありがとう、ございます……」
枯れたと思っていた涙が、また溢れた。
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