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「専務、少しよろしいですか」
声を掛けられた友永市子(ともながいちこ)は、デスクの前に立つ葛見伊織(くずみいおり)を見上げた。
「企画デザイン部の葛見さんね」
迷うことなく言った市子を見て、伊織は「専務は全社員の顔と名前を憶えている」という噂は本当かもしれないと思った。その噂には、社員の素行や自分への悪口もチェックしているらしいという内容も含まれている。
そのため、市子を嫌っている社員もいるようだが、伊織は市子のことが嫌いでも苦手でもなかった。そもそも興味がないというのが正確なところだ。
「育休をいただきたいんですが」
淡々と要望を伝える伊織とは反対に、市子の顔には驚きが浮かぶ。噂通りならば、市子が把握しているのは顔と名前だけではないはずだ。伊織が結婚も出産もしておらず、もちろん子どももいないことを知っていたから浮かんだ表情だろう。
育児休暇の申請ならば、所定の書類に必要事項を記入して上司に提出するだけでいい。わざわざ専務のところまで直訴に来たのは、伊織自身もそれが本来受け入れられるはずのない希望だと分かっていたからだ。
「お話中?もう少し後の方がいい?」
伊織の後ろから声がした。顧問弁護士の安曇房子(あずみふさこ)だ。
自然な笑みを浮かべる房子を見て、伊織はほんの少しだけ表情を変える。伊織は、密かに房子に憧れの気持ちを持っていた。
房子の姿を確認した市子は立ち上がった。
「むしろいいタイミングです。葛見さん、今の話は別室で詳しく聞かせてください。ふ、安曇先生にも同席していただいていいですか?」
伊織が頷いたのを確認して、三人は管理部に隣接している応接室に場所を移した。
「一体何の話ですか?」
房子の問いに答えたのは市子だ。
「葛見さんが育休の申請をしたんです」
「育休は社員の権利ですよね。何か問題がありましたか?」
「葛見さんは未婚です。もちろん、出産もしていません」
そう話す市子の表情に、伊織は少しだけ違和感を覚えた。伊織の持ち掛けた話は、市子にとってひどく面倒臭い案件のはずだ。それなのに、房子に説明をする市子の表情は、いつもより幾分か和らいでいるように感じらる。
市子の言葉を聞いた房子は、柔和な表情のまま伊織に視線を移した。
「きちんと事情を聞きたいのだけれど、私も一緒に聞いても大丈夫?」
房子の言葉に伊織は頷く。
そして、伊織はゆっくりと話をはじめた。
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