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その日伊織は、いつもより長く残業をした。翌日が休日だったため、片づけておきたい仕事があったからだ。家の近くに辿り着いたときには、間もなく日付が変わろうという時間になっていた。
そんな深夜の公園に、ベビーカーを押す女性の姿を見つけた。赤ん坊の泣き声も聞こえてくる。伊織はしばし考えて、女性に歩み寄った。
「こんばんは」
女性はビクリと肩を揺らす。
「赤ちゃん、夜泣きですか?」
女性は怯えた目で伊織を見る。房子のような笑顔を浮かべられれば少しは警戒を解けるだろう。それができない自分の無表情さが恨めしかった。
だが、伊織にも武器はある。
「フレンドリー・フレンドで商品開発をしている葛見です。少し赤ちゃんのことを聞かせていただけませんか?」
名刺を渡して伊織は言う。子ども連れの主婦には絶大な威力を誇る印籠だ。
「夜泣きがひどいんですか?」
「は、はい」
女性はか細い声で答えた。
「抱っこしてあげては?」
「でも、抱き癖が付いてしまうって聞いたから」
「そういう話もありますが、赤ちゃんは不安なんですよ。抱っこしてお母さんが側にいるから大丈夫だと伝えてあげた方がいいと思います」
伊織は静かに言う。だが、女性はまだ戸惑っているようだ。
「とても不躾なお願いなんですが、おもちゃの試作品のモニターをお願いできませんか?」
「え?」
伊織が突然違う話を切り出たことに女性は驚く。こんな夜中に提案される内容ではないだろう。
「試作品はウチにあるので、少しご足労いただいてもいいですか?」
女性は警戒の色を深めた。いくら、フレ・フレの名刺を出されたといっても、それだけで初対面の人間を信用できるはずもない。それでも、伊織は引かなかった。
こんな夜中にこの親子を公園に置き去りにしてはおけない。珍しく伊織の感情が動いていた。
伊織は、強引過ぎるのことを承知の上で、ベビーカーに手を掛け、女性の返事を待たずに移動をはじめた。女性は「待ってください」と言いながら慌てて引き留める。
「あのマンションですから」
伊織は女性の制止も聞かず、親子を自分の家へと連れ込んでしまった。訴えられたら犯罪になるかもしれないという不安もあった。だが、今は、この親子を保護することが優先だと自分に言い聞かせる。
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