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「マンションの中だとご近所迷惑になりますから」
部屋に入った後も、女性はすぐに出て行こうとする。
「この部屋は防音処理がしてあるから大丈夫ですよ」
伊織はそう言って視線を移した。視線の先には立派なピアノがある。
保育士を目指して、幼い頃から練習をしてきたピアノだ。思いっきり弾けるようにと、両親が防音工事をしてピアノ室にしてくれた。夢を諦めてからほとんど弾いていないため、防音が役に立つこともなくなっていたが、今回は久々に役立つようだ。
明るい部屋で見ると、女性は伊織よりもずっと若く見える。伊織は、ベビーカーの中から赤ん坊を抱き上げて、女性の腕に抱かせた。ぎこちなく赤ん坊を抱く女性に伊織は言う。
「それだと、赤ちゃんが苦しいから、腕で赤ちゃんの頭を支えるようにして抱いてあげてください」
女性は言われる通りに赤ん坊を抱えなおした。それでも赤ん坊はまだ泣きやまない。伊織は静かに続けた。
「大丈夫ですよ。ここには赤ちゃんの泣き声を咎める人はいないので安心してください」
女性の表情が少し緩んだ。
母親が落ち着いたことが分かったのか、しばらくすると赤ん坊も泣きやみ、すやすやと寝息を立てはじめた。
伊織は、来客用の布団をピアノ室に敷く。
「赤ちゃんを寝かせて、あなたも少し横になってください。疲れているでしょう?」
女性は、緊張が解けたのか、素直に頷いて布団の上で横になった。
「私は隣の部屋にいるので、何かあれば声をかけてくださいね」
そう言って、伊織は寝室に移った。
翌朝、伊織がピアノ室を覗くと、親子はまだスヤスヤと眠っていた。二人を起こさないように静かに早朝ウォーキングに出る。
昨夜は使命感に駆られて勢いで親子を連れてきてしまったが、これからどうすればいいだろう、と伊織は考えていた。結局昨夜は家に泊めてしまった。そのことを旦那さんに咎められるかもしれない。きちんと事情を聞きたいとも思ったが、そこまで踏み込むべきではないとも思う。
伊織はコンビニに寄って、取り敢えず必要となりそうなものを買い揃えて部屋に戻った。
ピアノ室をそっと覗くと、女性が赤ん坊に授乳をしているところだった。伊織はその姿に見入ってしまう。それは、とても美しく尊い姿だと感じた。
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