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伊織に気付き、女性は小さく「おはようございます」と言った。
「赤ちゃんは落ち着いていますね」
伊織が言うと、女性は少し笑みを浮かべた。彼女の笑みに伊織はホッとした。
「えっと、名前は?」
伊織が聞くと「洋子です」と女性が答える。
「洋子ちゃんか。かわいいですね、洋子ちゃん」
すると、女性が顔を赤らめた。
「ごめんなさい。それ、私の名前です。この子は唯(ゆい)です」
「あ、すみません。紛らわしい聞き方をしてしまって」
伊織も気恥ずかしくなる。でも、次の瞬間には二人でこらえきれずに笑い声をあげた。伊織は、自分が自然に笑えていることを不思議に思っていた。
その後、簡単な朝食を作って、伊織と洋子は食卓を囲んだ。伊織が人と食卓を囲むのはずいぶん久しぶりだった。
この家には、以前は家族三人で住んでいた。だが、田舎で農業をしたいと言い出した父が、早期退職をして母と一緒に移住してしまったのだ。
「あの、葛見さんは赤ちゃんのことに詳しいんですね」
最初に口を開いたのは女性の方だった。
「素人の知識です。子どもの頃、保育士になりたくて色々勉強していたんです」
「どうして諦めてしまったんですか?」
「こんな顔なので、子どもたちを怖がらせてしまうんですよ」
伊織はそう言うと、つくり笑顔を浮かべて見せる。女性はちょっと驚いた顔をして、クスリと笑った。
「葛見さんは、無理に笑わなくても、素敵だと思いますよ。きっと、そのままで子どもに好かれると思います」
それは、笑顔を作ると怖いと言っているのかもしれないが、伊織は少しうれしくなる。
「洋子さんの事情を聞いてもいいですか?」
洋子の表情が柔らかいのを見て、伊織は思い切って尋ねてみた。
すると、先ほどまで浮かべていた笑顔が消えていく。
「唯がよく泣くから。少し夫がイライラして。だから、夫が家にいる間は、できるだけ外にいるようにしているんです」
洋子はとても簡潔に説明したが、そんな簡単な言葉で片づけられる話ではないのだろう。伊織は込み上げる怒りを抑えて聞いた。
「ご家族やご親戚に助けてもらうことはできませんか?」
「夫は家族とは疎遠なので。私の両親は私の結婚に反対していたので、連絡をしていないんです」
「結婚に反対、ですか」
「大学生で唯ができて、中退したのを怒っていて」
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