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僕は胸に回されている腕を辿って彼の手に触れ、少し動揺しながら目を閉じた。
抱いてくれてるのがキシなら、どうだろう。幸せだろうか?
でも、いつもと同じで、うまく想像できなかった。
僕はもう、そんな想像ができるほどキシを憶えていなかった。
閉じた瞼の裏に夕焼けの色が映り、ちりちりと震えた。目を開けると、空は天の方向から暗くなりかけている。
後ろめたかったが、それがキシに対してなのか、英司に対してなのか、よくわからない。
「幸彦くん」
英司が耳元で呼んだ。
「うん」
「ゆきひこ」
「ん」
「呼び捨てにしていい?」
「いーよ」
英司は、ふふっと笑い、
「キシは、何て呼んでた?」
と言った。
英司がキシの名前を口にしたのは、知り合ってすぐ、初めてキシの話をした時以来だった。
「名字で…」
と、僕は反射的に答えながら、答えを求められていたわけではないと気づいた。
昔、会社の階段で、後ろから来たキシが上野、と呼び止めた時のことが、何故か思い出された。
少し後で僕が泣いて濡らすことになる白いシャツの袖は、肘まで折ってあった。キシは僕を追って、階段を上がってきた。
英司が、腕に力を込めて、
「ずっと忘れないつもり?」
と耳元で呟いた。
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