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「これ、渡しとくね。心機一転にちょっと長めの旅行してくるから、悪いけどその間にお願いできる? 立ち会うと決心鈍りそうで」
素子は、あたしの提案を食らったその場では「前向きに考えとく」と答えを濁したけれど、それから数日と経たずに家の鍵を寄越してきた。よくある社交辞令だと思ったが、本気だったらしい。
そのとき既に、あの子はとてもすっきりした顔をしていた。眼差しは凪いでいた。いつもの「諦め」を溜め込んだ目ではなく、希望すら湛えて見えた。あたしをさしおいて、全てを一人で清算してしまったんじゃないかと思ったくらいだ。不安になって「お楽しみはちゃんと残してくれてるんだよね」と詰め寄ったら、素子は八重歯を控えめに覗かせて頷いた。
この子、ちゃんと笑えばこんなに可愛かったんだ。次に会うとき、「いつも伏し目がちなの、もったいないよ」と言ってあげよう。
思春期の男子みたいな気分で、不思議なときめきを引きずったまま、あたしはその翌日休暇を取ってトラックを借り、初めて素子の家を訪れた。都内にある職場から30分ほどかかる、郊外の寂れたアパートだ。念のため大屋さんに声をかけたら、とても愛想よく対応してくれた。本当に迷惑がられていなかったらしい。
「素子ちゃんから聞いてるよ。引っ越し前の片付けを知り合いが手伝ってくれるってね。ここには10年以上いてくれてたから寂しいけど」
引っ越すという話は初耳だったが構わなかった。だとしたら、旅行というのは物件探しも兼ねているのかもしれないと思ったくらいで。
本音を言えば、素子のアパートを目にしたときから「捨てたい」という衝動に駆られて仕方がなく、その他のことはどうでもよくなり始めていたのだ。もちろん鍵を使ってドアから入ったけれど、「強盗が押し入るのを見た」と証言する人がいてもおかしくはない。
肝心の素子の部屋は、そこかしこに溢れる物で足の踏み場もないゴミ空間などではなく、毎日見ている“ゴミ置き場”そのものだった。
ビンはビン、カンはカン、紙は紙できっかり仕分けて置いてあり、雑然の「ざ」の字さえない。あれこれ捨てやすいように整理整頓していったのではなく、元からこうなのだろうと思った。あたしががっかりするような真似を、あの子がわざわざするはずがないから。
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