観察と愚痴

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 酷い、の一言です。  わざわざ外出して、外食をしたのに、なんの感動も事件もなかった。 ただ現実で現実が繰り広げられていくだけで、私に許されたことは目の前の退屈な出来事をこじらせた表現で描写することのみ。  自然派でない私にはなにげない日常の面白さなんてまるで分らない。展開が派手であれば派手である方がワクワクするミハー。マニアにすらもなれない退屈な素人。  たかだが一時間弱の時間と千円前後の消費ぐらいで、その手の感動を求める私が間違っている?  はい。間違っているでしょう。なにもかも。  現代は、終わりなき日常だの、平凡で退屈な人生だのいった、一昔前の概念とその葛藤なんて克服してしまった。  インスタやツイッターといった、凡人と特別な人々との垣根の低い場と、特別になりたかったらそれなりの努力をしろ、という身もふたもないアドバイス、そして一つの思想が飽きられるまでの時間は、義務を果たさない癖に要求だけはいっちょ前な餓鬼の口を黙らせるには十分でした。  SNSという処方箋が効いて承認欲求という虚無な器が満たされた皆さんは幸福です。古い不安を思考の力で乗り越えた方々は立派です。はじめからそんな戯言には耳を傾けなかった人々は賢明としかいいようがありません。  それらの啓蒙は私のような化石にだって響きました。たしかにそうだろうな、と納得させられました。  それでも自分が特別でないことの不満は、まるで薄れないのです。学生時代からずっと平凡な人生にうんざりしています。  わかっているのです。私の特別な存在になりたい、だなんて願いが、周回遅れであって、それを今更口にすることが、滑稽でしかないことなんて。  どうせ報われないのであれば、杞憂という言葉の元となった男のように壮大で贅沢な無駄さの未来を案じていればいいものを。  彼は空が落ちてくるかもしれない、という馬鹿げた空想を真剣に信じて、杞憂という言葉の中に、自らを刻み込むことに成功した。  対して私は中途半端なスケールの、けれど確実に実現不可能ではある夢想に浸って、一人悶えるだけ。そうやって誰にも顧みられることもなく、ファミレスで食事をしている。なんて惨めなんでしょう。  私の不安だって漢字二文字に収まる程度にはコンパクトなはずなのに。  わかっています。重要なのが文字数でないことなんて。  深さ、私にはそれが足りていない。
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