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そんな折、話が終わるタイミングを見計らっていたかのように、ゆっくり遠慮がちに入店口のドアが開かれた。扉の上にくくり付けてある鈴の音が来訪者の存在を知らせる。
「いらっしゃいませ」
歩美が入店口に向かって挨拶を交わすとそこには年齢は自分と同じぐらいだろうか、深く赤いキャップを被った三十代ぐらいのの男性客が一人無言で佇んでいた。
男の身長は低く、腫れぼったい眼に黒ぶち眼鏡、おまけに出っ歯とお世辞にも整った風体とは言えない。中でも特に目についたのは、ゴルフボール級の一際大きなだんご鼻で歩美はかすかな不快感を覚えた。
「振りのお客さんね……」
真理子が唇を動かさないように歩美にだけ聞こえるように小さく呟く。
確かに今回が初めての客であることは間違いない。こんな特徴的な顔立ちをしているお客なら記憶に刻みこまれているに決まっている。
「お好きな席にどうぞ」
不快感をすべて営業スマイルの裏にしまい込み、ついていたテレビの電源を落とすと、歩美は男の元まで歩み寄り身振りと共に店内への入店を促した。
近くに寄って気が付いたがこの男はすでに酒を飲んいる。僅かながらアルコールの匂いがする。
男は歩美の顔から足元まで全身まじまじと確認した後、ゆっくりとカウンター席に向かい腰を下した。
「どうぞ、何になさいますか?」
男が席につくのを確認すると同時に歩美はおしぼりを手渡しながら注文をとる。
「……とりあえず、烏龍茶を一杯」
男は受け取ったおしぼりで手を拭きながら店内をキョロキョロと見渡している。
「お客さん、僕以外にいないんですね……」
出っ張った前歯をにょきっと出しながらぽつりと男が呟いた。あまりにデリカシーのない失礼な男の言動に歩美は一瞬言葉を失う。
「ええ、今日はお兄さんの貸し切りですね」
横から笑顔の真理子が会話をうまく拾ってくれた。
「貸し切りですか……なんか良いですね、それ」
なおも店内を見渡しながらではあるが男もまんざらでもない様子で嬉そうにしている。それを確認してから真理子は歩美に微笑みかけると、お通しの準備にと厨房に消えていった。
しばらくお相手よろしくね、という意味だろう。
真理子はいつも微笑みで会話をする癖があった。はじめのうちは真理子の真意が読めずに困惑したものだが、長い間一緒に仕事をしていれば大抵の意図はくみ取れるようになる。
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