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「奏にぃ……なんでここに」
雨音の中、呟かれた言葉は昔となにも変わってないように思えた。
僕のことを『奏にぃ』と呼んでくれるとは思っていなかったから、それが予想外で少し驚く。
あんなことがあったのに、まだ慕ってくれているのだから。
この子はどこまでも真っ直ぐで素直な良い子だ。
タクシーを呼び終えて、携帯を内ポケットにしまう。
雨で冷え切っている指先が、先ほどから震えていて鬱陶しかった。
「江川と飲みに来たんだ。総務の同期。ま……大瀬戸は経理部だからまだ馴染みないと思うけど、後々世話になるだろうから覚えておいて損はないよ」
にっこりと微笑んで、開口一番が事務的な会話なことに笑えてくる。
そんな僕の態度に、気にしていないのか。興味もないのか。
バーの看板を見上げた誠は、10年前のあの時と同じく、射殺すと言わんばかりに僕を睨みつけた。
「アンタ、あの時俺になんて言ったか覚えてるか?」
「うん。覚えてるよ」
誠の声音の余韻には怒りが滲んでいて、今にも当たり散らしそうな勢いだった。
それに、さらりと答えてやると直後、衝撃が脳天を突き抜けていく。
「ふざけんなよ、クソ野郎!」
襟首を掴まれて壁に背中が擦れる。
至近距離で見えた顔は、雨の雫に濡れて泣いているようにも見えた。
けれど、今の誠は怒っていて、泣いてるのは雨の方だ。
「あの時、俺にあんなこと言っておいて。それでこうしてここに来て。なんなんだよアンタ、なんで今更こんなことするんだよ!」
「……誠のことが好きだからだよ」
「っ、俺が、……俺が男だって知っててそんなこと言ってんの?」
「うん」
「欲情してるって、そういうこと?」
「うん」
問いかけに、ただ黙って頷く。
誠は僕の意図に気づいたようで、一瞬息を飲んだ。
なにか話そうとして、空気だけを噛んで言いたい言葉は萎んでいく。
「――そういうの、気持ち悪いよ」
最後に喉奥から絞り出した言葉は、僕がかつて彼に言い放ったものと同じだった。
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