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「バスはまだ来ませんね」
いきなりの声に、私は身を強張らせた。
いつから居たのか、私の側に女が立っていた。声も出せず、動くことも出来ない私に、その女は優しく微笑みをくれた。
黒く長い髪をストレートに垂らし、それに覆われた顔は、対比のせいか、余りにも白かった。綺麗にも見えるし、そうでなくも見える。捉え所がない。幽玄。そんな言葉が似合う。
私はやっとのことで声を絞りだした。
「い、いつからそこに」
「ずっと居ましたよ」
「そ、そんなはずは……」
女はそんなことはどうでもいいという風に私に語りかけてくる。
「何だか、大分お悩みのご様子。如何なさいました? あ、いえ、いえ、言わずとも分かりますよ。貴方のことはずっと見ておりましたから」
私は女の声にのまれていくのを感じた。最早、何故女が急に現れたのかはどうでもよくなる程に。声が私を侵食していく。一語一語がゆっくりと身体に染み込み、私の存在が、まるで女の声で構築されているような感覚に陥る。
「生き難いのですね。生まれて物心がついた時には、もう貴方はそう感じていたのですね。貴方の葛藤は分かりますわ。自分だけなのか? 他人の笑い顔を見るだけでも、そんな感情が渦巻いたことでしょうね。でも、貴方だけではないのですよ。誰しも大なり小なり生き難いのですよ。それに折り合いをつけて暮らしているに過ぎないのですよ。だだ、貴方はそれが上手く出来ないだけなのです」
私は黙って頷いていた。思考が緩慢になり、頭の中を女の言葉が形を変えながら埋めていく。そう、まるで万華鏡のようだ。在る物が無限とも思われる程に形を変えていく。女の言葉の連なりは、重なり合う度に形を変え、まるで捉え所がないようだが、確かに在った。
「人はね、誰しも猫を飼っているのですよ。もちろん貴方も飼っているのですよ。ほら、そこに見えませんか?」
「にゃあ」
またしてもハッキリと聞こる鳴き声に、私はその存在を見つけようとしたが、かなわない。
「ほら、足元を御覧になって」
女に促され、私は顔を下に向ける。そこには黒く痩せ細った猫がいた。
目が合った猫は、私の右足にすり寄ってきた。猫など一度も飼ったことがなかったが、何故かずっと一緒に暮らしてきたように思われた。
「さあ、抱いてあげてくださいな」
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