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「ひゃ、」
ユウが声を上げたのは、その勢いに驚いたからだ。水の大半はしおんがひっかぶっていた。
冷てえ、――
思う間もなく誰かの舌打ちが聞こえる。後ろに控えていた少年たちもとばっちりで濡れたのだ――と思ったとき、どん、とひかがみあたりを蹴りつけられた。
不意を突かれて盛大につんのめる。転がり出た先でしたたかに体を打った。
「くそ……」
吐き捨てて起き上がろうとしたそのとき、光に射貫かれた。
劇場の明かりはそれまで薄暗い道を駆けてきた目に眩しすぎる。突然右も左も上下もわからない、真っ白な荒野に放り出されたような心許なさにいら立ちは増した。外套なんて上等なものは持っていない。孤児院時代からずっと着ているシャツがびしょ濡れになり、素肌に張り付くのも不快だ。
鬱陶しい――
水の滴る前髪をかき上げて、我に返った。
帽子がない。
いつも人前で絶対に脱がないようにしているそれが。
「……っ」
たぶん、よく見えもしない辺りをとっさに見回した自分は、ひどくみっともない顔をしていたに違いない。
それを裏付けるように客席がざわめいている。
――やだ、なに、あの子。
――へえ、なんだいあの髪の色。とうもろこしの髭みたいな。
――ん? 目の色も……
折り重なる囁きだけで、首を絞められたように息が詰まる。声の方向を睨みつけてやりたいのに、まだ目が慣れない。しおんのブルーグレイの瞳は、そもそも光に弱かった。
「も~しわけありません、龍郷様。今! すぐ! 片づけさせますので!!」
たっぷりと砂糖をまぶしたような声は、支配人だろう。ユウを追い払おうとしていたのと同じ人間とは思えないそれだ。
舞台がどかどかという無遠慮な足音で揺れ、誰かがしおんをつまみ出そうと近づいてくるのがわかった。今となってはこのいたたまれない空間から連れ出してくれることに有り難さすら感じる。乱暴に扱われるのは不愉快だが、ここから下がったらすぐ逃げ出せば――
不意に、そんな気持ちに待ったをかけるように声がした。客席側からだ。
「歌わないのか?」
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