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「ねえあんた、ほどほどにしときなさいよ、そういうの」  銘酒屋の二階から降ってきた声にも構わずに、しおんはつい先刻ぶつかった男の懐から抜いたものをあらためた。使い込まれた財布に嫌な予感がする。案の定金は入っておらず、舌打ちと共に投げ捨てた。  いつもならもう少し夜が更けてから動き出すのだ。その頃にはこの辺りは酔客と呼び込みの女で溢れる。白粉と饐えたようなにおい。とうに誰も上らなくなって巨大な墓標になり果てた十二階の影が落ち、その闇は奈落にでも繋がっているような気がする。  墓標の周りにはいつしか、地中からしみ出した情念が作り出したかのように薄暗い私娼窟がみっしりひしめいていた。ついた呼び名が十二階下。酒を扱うていで店に男を呼び込む銘酒屋は、天下の公娼街吉原に向かう途中の、懐具合の心許ない客を格安で掠め取って暮らす女たちの巣窟だ。  掠め取る、という意味ではこの女も自分もやっていることは同じなのに、訳知り声で窘められるのはむかつく。     
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