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――このまま駆け出して路地裏にでも潜り込んじまえば、なまじ車な分追ってこられないだろ?
龍郷の背中をうかがいながら間合いを計る。ドアを開けるときが勝負だと思った。誰でもその瞬間は、店の内部へ注意が向くだろう。
龍郷が真鍮のドアノブに手をかけたときを見計らい、逃げだそうとしたときだった。
――なんだ、これ。
嗅ぎ慣れない匂いに鼻腔をくすぐられて戸惑う。
十二階の周りにも飯屋はあって、銘酒屋から漂う饐えたようなにおいと混ざってなんとも言えない湿度とともに漂っていたものだが、ここは違う。匂いにも明るいと暗いとがあるのなら、明らかに前者だ。
そんなことを考えている間に、女給がすぐ入り口まで出迎えにきてしまった。
「いらっしゃいませ。ああ、龍郷様」
龍郷はここの常連なのか、若い女給は華やかに微笑んだ。動きやすいようにか、袴の上に白いエプロンをつけている。髪をきっちりと結い上げてはおらず、前髪を大きく波打たせ、後ろは低い位置でゆったりまとめていた。最近流行の耳隠しというやつだ。
カフェー……とは違うのか。
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