五年

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 話さなければ良かったと思うこともあるけれど、紗英はこの人にすべて洗いざらい話していた。父の事、母の事、そしてマスターとのこと。でも、いっちゃんの話だけは本当に軽く触れるだけに留めていた。いっちゃんとの思い出は紗英にとって侵してはいけないほど輝いていた思い出だ。そう、紗英の唯一輝く思い出。どんなに恩人であっても、石田さんに少しでもいっちゃんのことを悪く言われたら……。 「もう出てきてるってよ」 「え?」  自分の世界にいた紗英は我に返って聞き返す。 「お前に何かしちゃったイタリアンレストランのシェフさ。執行猶予にならなくたって、そこまで重い罪じゃないからな」  なんでそんなことを知っているのかと言う問いは愚問だ。そう言う人なのだという事は紗英にも分かっている。特定の人物の情報が欲しいと思えば石田さんはどういう手段でかは分からないが、必ず手に入れる。それが些細な情報であっても、大きなものであっても。 「そうですか……」 「会いたい?」 「え? 全く会いたいとは思いません」  石田さんは「だよなぁ」と言いながら伸びをした。そして、ケーキの箱を掴むとゴミ箱に放り投げる。ポイっと投げた二メートル先。黒いゴミ箱の中に箱は指示されたように真っ直ぐと吸い込まれていった。 「風呂入って来いよ」 「あ、そうする」  促されて紗英はすくっと立ち上がる。正直、体は疲れている。早く布団に入って、石田さん包まれて眠りにつきたかった。
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