人の形を捨てなくて良かった。

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千咲(ちさき)が行方不明になったらしい」  私の通っていた高校で、私を定義していた名前が飛び交っていた。  かつて私は、千咲という響きに支配されていた。千咲と呼ばれる度に、振り返らなければならなかった。返事をしなければならなかった。微笑まなければならなかった。 「どこに行ったんだよ、千咲……」  私の恋人だった、和人(かずと)がクラスメイトに囲まれていた。大丈夫だよ、すぐに帰って来るよ――根拠のない慰めが彼の頭上を飛び交っていた。和人はああ、と気のない返事をする。沈んだ表情を浮かべ、対外的に哀しんでいることを形作っていた。端的に言えば、悲劇のヒーローを演じているということが、手に取るように分かった。  和人は、私のことを好きではなかった。私の形が、好きなのだった。私の愛らしい顔は、彼の世間体や自尊心を満たした。私の艶美(えんび)な肉体は、彼の欲求を余すことなく満たした。私の中身なんて、何でも良いみたいだった。彼は私の好きな色を知らない。好きな食べ物を知らない。好きな音楽を知らない。けれど、その全てを知っておいて欲しいと求めるのは、酷なことだった。私には、好きなものなんてないのだから。
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