一葉の熱い血潮と慟哭する身体

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一葉の熱い血潮と慟哭する身体

するとそれに呼応するかのように私を睨視していた一葉の目付きが変わり、そこにも切なげな、しかし愛しげでもある涙が浮かびあがる。一歩、二歩と私の方へ歩みかけたが逡巡して止まった。しかし『いいんだ。みんなわかっているよ。すべて許している』とでも云うような想念が私のうちに湧き起こって来、一葉に向かって私は鷹揚にうなずいていた。その途端「お父っあん!」と一言叫んで彼女は私の胸に飛び込んで来、そのまま堰を切ったように泣き出した。その背に手をまわして私は彼女を慰めるのだが「すまない、すまない」と侘び続ける声を、どこか胸の内で聞きながらのことであった…。  しかしこの時通りをはさんだ公園の向こう側に人が立つのが見えた。歩行者用の信号ボタンを押したようだ。信号が変われば公園に入って来るにちがいない。しまった、どうしよう、いや(この奇跡の邂逅は)、どうなるのだろうと危惧した途端、一葉が我に返ったように私の手から離れ、恥ずかしげに目を手でぬぐった。私はポケットからハンカチを取り出して一葉にわたす。幸いなことに公園に入る前偶然にも¥ショップで買ったばかりのもので一度も使っていない。一葉はそれをしばし目にあてたあと「どうも、あいすみません。はしたない真似をしてしまって。どういうわけかあなたに父の面影を見てしまい…ほほほ、大人げない女とお笑いください」と云って謝った。「いや、とんでもない」と大仰に云いながらしかし私は彼女の肩越しに、信号が変わってこちらに来ようとしている老人を見ていた。おおかた近所に住む老人の夜の散歩ででもあろうが出来れば私はこちらに来てほしくなかった。距離があって見えまいが私はすわった目付きをして老人をにらみつける。それが効いたのかあるいは私の仕草におかしなものを感じたかして、彼は公園を巡る側道へと進路を逸れてくれた。もし、である。一葉の姿が私だけに見えて余人には見えないものならば、人を抱くような、あるいは透明人間にハンカチを手渡すような仕草はきっと不気味に思えたのにちがいない。しかしもしそれならハンカチは宙に浮かんで見えたのだろうか?もっとも暗くて見えなかったのかも知れない。とにかくまわした手の平には一葉の熱い血潮が、慟哭する身体のふるえが間違いなく伝わって来たのだ。ゆめ、霞まぼろしの類とは思えなかった。
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