今は何年ですか?

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今は何年ですか?

髷姿と云い、覇気のまったくない私でもさすがに眼前の女には強く興味を引かされた。いったい何者なのだろう?とにかく事実を伝えてやる。 「はい、今は夜の8時過ぎで、ここは大森駅から遠からぬ公園の中です。逆に…その法真時とはどこの寺ですか?そもそもあなたはどこにお住まいですか?」などと、うら若き女性に臆面もなく私は訊き返していた。女っ気ゼロの灰色の人生の中で奇跡のような一時だったが、それが本当に奇跡と知れるのに幾許もかからなかった。女はこう答えたのだ。 「えっ!?大森駅!?…大森駅って…あ、いや、その…わ、わたしは、下谷の龍泉寺町に住む者で、法真寺とは本郷帝大前の、浄土真宗のお寺で…あの、桜の木の下に観音様の座します寺です。さきほどまでその脇の庭石に腰掛けて、物思いにふけっておりましたのに…ふと気が付くと夜になっていて、あなたが目の前に立っていたのです。これはいったい…私は天狗の神隠しにでも会っているのでしょうか。あなたが天狗とも見えませぬが。ほほほ」上品な笑いで誤魔化してはいるが女の不安な様が手に取るように判る。女の云うことがもし本当なら無理もあるまい。憐憫とも同情ともつかぬ思いで改めて女を見た時、一瞬〝何か〟が心の中で弾けたような気がした。情動とも何とも云えぬものが胸の辺りから伝わって来て、それが私の記憶の中から今に的確なものを伝えて来たのだった。下谷?龍泉寺町?…閃くものがあった。私は女の顔を確かめるべく身を近づけた。誤解して女が怯むのに「いや、お顔を確かめようと思いまして…もしや知り合いかと」と言いわけしつつかまわずにその顔にまじまじと眺め入った。果せるかなある著名人にそっくりで、そして私は以前からその人物に痛く心酔していたのだった。ただし、である。その人物とは断じて今に存在する人物ではない。しかし矢も楯もたまらず今度は私の方から珍妙なる質問を投げかけてみた。 「あの、変なことを聞くようですが…今は何年ですか?その、別に…ちょっと確かめたくて」という問い掛けに「ほほほ、私の気が触れていると…。よござんす。さよう、開化の暦で云えば1894年、元号で云えば慶応に続く明示27年の2月かと存じますが、違っておりましょうか。ほほほ」と淀みなく答えてみせる。こいつはおどろいた!今は2005年で、明治から数えて四帝目の平成の御世だ。いったい何事が起きたのだろうか。
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