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ゆづるさんは、本当によくできたひとだ。
彼女が私の為に用意してくれた食事は、片手で食べられる俵型のおにぎりと、茄子とキュウリの浅漬け、それから、程よく冷えた麦茶が水筒に入っている。
お陰で、私は執筆しながら腹を満たせられるし、ぬるい水を飲んで眉を顰める必要もなくなった。
「あ、うまい」
一口齧ったおにぎりは中にピリ辛の味噌が入っていて、暑気でボンヤリとした頭に活力を与えてくれる。
この味噌が実にいいのだ。中にいろんな具材が微塵切りにされて入っているのが面白い。独特の風味があり、旨味と甘みの凝縮したこの粒は、椎茸の旨煮だろうか。ピーマン、ゴボウ、人参は色味や風味で分かる。また、ただの味噌には出せない、微塵切りにした具が入っているからこその、粒々とした食感は食べ応えがあっていい。
初めて食べたが、とても気に入った。
もう一つのおにぎりは梅干しだ。
この、目の覚めるようなしっかりとした酸味には覚えがある。恐らく、彼女が手ずから漬けたものだろう。しょっぱさにまだ角があることから、先日土用干ししたばかりの新物か。
満腹になれば眠くなるかと危惧したが、寧ろ、思考が冴え、力が漲ったように思う。
あの体たらくな扇風機も、ゆづるさんに懐柔されて働きだしたので、暑さもさっきと比べれば断然楽だ。汗だくなのは変わらないが、筆のスピードは桁違いに上がった。
どうやら長時間に及ぶ作業を行う際は、適度に休憩を取る方が効率的らしい。
昼食を摂りながら、どれだけ執筆に集中していただろう。ふいに、部屋が僅かにだが暗くなった。部屋に影が差したのだ。
だが、書斎に影が差す時間でもないし、今日は急に曇るような天気でもなかった筈だが……。
強烈な日射しが遮られたことで、体感温度はグッと下がる。急にどうしたことだろう、と俯いていた頭を上げれば、窓の外によしずが立てかけられていた。
(どこから現れたんだ?)
身を乗り出して窓を覗けば、よしずの隙間を通して、ゆずるさんの姿が見える。
彼女が何処からかよしずを調達して、書斎に影を作ってくれたようだ。
どこまでも気の利く人だ、と彼女に対して感心し、自分の為にここまでしてくれることに感激した。
「只今帰りました」
玄関の戸の開く音に続き、ゆづるさんの声が聞こえる。その瞬間、ああ、いいな、と笑みが溢れた。
まるで、彼女と共に暮らしているようじゃないか。
「お帰りなさい。よしず、ありがとうございます。随分と過ごし易くなりましたが、これ、どうなさったのですか」
「買いました。だって、暑いでしょう。ほらほら、私のことはお気になさらず。お仕事、頑張って」
頑張って、と言われては、サボるわけにはいくまい。お言葉に甘えて机に向かうと、家の何処そこで彼女の動き回る気配がした。
主にいるのは台所。冷蔵庫の開閉音や、物を切る音、火を扱う音がする。
暫く台所で過ごした彼女は、次に掃除するつもりらしい。私に許可を取りに来た後で、箒で床を掃く音や、浴室を洗い清める音、あらゆる生活音が聞こえてきた。
自分以外の他人が発する物音が、常に耳に届く。だが、不思議とその音を煩いとは感じられず、寧ろ、居心地がいいとさえ思ってしまった。
彼女が動けば、部屋に滞っていた空気に流れが生じる。
部屋から部屋へ渡り歩けば、風が彼女に付いて回り、新鮮な空気が室内の熱気を掻き混ぜて、開け放った戸や窓の外へと追い払う。
いつもは私一人しかいない家に、ゆづるさんという新たな存在が加わった。たったそれだけのことなのに、家の中の雰囲気が大きく変わったようだ。
「貴方のお家なのに、勝手にあちこち掃除して、ごめんなさい。私、煩くないですか?」
「矢潮さん、暑いでしょう。濡らしたタオルはいかが?」
「麦茶、お淹れしましょうか」
書斎の前を掃く時、日が傾いて暑さが増した時、少し喉が渇いてきたなと感じた時、その都度、彼女は声を掛けてくる。
掃除については事前に許可を得ていたし、その他の気遣いも煩わしいなどとは露ほども思わない。
特に有難かったのは、おやつだ。彼女は、三時のおやつに、コンポートを作ってくれた。……あの、私に苦い思いをさせた若い桃で作られたものだ。
クシ型に切った淡い黄色の果肉に、薄紅が華やかに映える。冷たい甘露をたっぷりと含んだ桃の実は、光を受けて艶々しく、如何にも涼しげだ。アクセントにちょこんと添えられたレモンの欠片が、なんとも愛らしい。
「器が冷たい。気持ちいいです」
桃のコンポートが入った硝子の小鉢は、よく冷えて、まるで氷に触れているようだ。
「これ、台所にあった桃ですよね」
「はい。少しでも日持ちさせたくて、シロップで煮てみました」
(やはり、あの最悪に不味い桃か)
あの味を思い出し、一瞬躊躇う。とは言え、せっかくおやつを作ってくれた彼女の手前、桃が嫌いだなんてほざけない。
ゆづるさんの料理がすべからく美味しいのは、よく知っている。このひとならば、あの桃もきっと上手く料理している筈だ。
(ええい、ままよ!)
フォークで一口大に切ったコンポートを口に含めば、口の中がたちまちヒンヤリとする。
なめらかな舌触りの果肉は、歯を使わずとも容易に潰れ、レモン風味の甘露を舌の上にじゅわりと滴らせた。
「おいしい」
甘露は昼間飲んだレモネードと似た味だが、こちらの方が甘みがより際立っている。
桃特有の強い甘みと、いつまでも鼻の奥に纏わり付くようなにおいは感じられないが、元が若い果実であるが故に、桃らしさが薄いのは仕方のないことだ。それでも、桃が苦手な私にとっては、桃の主張が激しくないこちらの方が好ましかった。
懸念していたエグミも感じられないし、果肉を飲み込んだ後に、喉がスッと冷えるのもまた心地良い。飾りのレモンの強い酸味が、清涼感を一層引き立て、実に夏らしい一品だ。
「いいですね、これ。清々しくて、夏の暑さを忘れさせてくれる」
「えへへ、ありがとうございます。実は、いいものを作り置きしまして。ちょっと待ってくださいね。ほら」
台所へ引き返した彼女が持ってきたタッパーには、蜂蜜漬けにした輪切りレモンがたっぷりと入っていた。なんでも、この蜂蜜レモンを素に、甘露煮やレモネードを作ったのだそうだ。
「これと桃のコンポートを冷蔵庫に入れておきますから、ちょっと疲れた時に摘まんでくださいな。あと、一週間くらい保存の利くお惣菜もあるので、しっかり召し上がってくださいね。食事を抜いちゃ駄目ですよ……って、矢潮さん?」
作り置きの惣菜リストを差し出すゆづるさんが、不思議な顔をして私の顔を覗く。
それもその筈。きっと今の私は傍から見ると、ポカンと口を開けて、アホみたいな顔をしているのだろうから。
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