夕立が上がるのを二人はきっと気付かない

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「ファ、ハ、ハクシッ!」  つむじから足の爪先までぐっしょり濡れれば、いかな夏であろうと体は冷える。 (うー、やっぱり雨って嫌い)  大きなクシャミをした直後の不細工顔でスン、と鼻を鳴らして胸中で唸った私は、気を取り直して目の前に建つアパートを見上げた。  見遣った先は三階のとある一室。その部屋の窓が開いているのを確認して、思わず歓喜する。 (良かった。姉さんいる)  濡れた体を拭きたい。できればお風呂を借りたい。お茶を飲んで体を温めたい。そして、姉と仲良くおしゃべりしながらおやつを食べたい。  たくさんの『たい』を並べ連ねながら、私はアパートの階段を駆け上がった。  雨足は先程よりも強くなり、雨樋を伝う水がバシャバシャ、と私の足音を掻き消すくらい大きな音を立てている。でも、そんなことはどうでも良かった。今は屋根の下にいるから、これ以上、雨に打たれることはないし、じきに冷えた体を温めることができるのだから。  目的の部屋に着いた私は、息つく間もなく呼び鈴を鳴らす。  ピンポン、ピンポーン。  盛大な雨音を掻き分けるように性急なチャイム音が外廊下に鳴り響く。  待つこと十秒。いつもならば、とっくに閉じたドアの向こうから姉の応答と足音が聞こえてくる筈だが、反応がない。 (雨音でチャイムが聞こえないのかな)  眉を顰め、首を傾げつつ、再度チャイムを鳴らす。今度は四度、おまけに「ゆづる姉さん」と雨音にも負けない大声で叫んだ。  それから十秒後、ザラザラと砂嵐に似た雨音の中、微かに女性の声が聞こえた。 「は、はーい。少々お待ちください」  声は姉のものに違いないけれど、かなり焦った様子だ。 「姉さん、慌てなくてもいいから」 「えっ、まゆみなの?! ちょっと待ってね」  絵本作家の姉の部屋は、画材で散らかることがある。慌てて動いて部屋の物を蹴散らさないよう声を掛けるが、姉の驚いた声と共に、中で何度か物にぶつかる音がした。 (もう、何やってるの、姉さん。妹相手に焦る必要なんてないのに)  鈍い物音にハラハラしながら耳をそばだてると、不意に低い声が聞こえる。姉の声ではなく、明らかに男性の声だ。 (しまった。間が悪かった)  どうやら来客中らしい。身内だからと気兼ねすることなく、予告せずに訪ねたが、これは明らかにマナー違反だと、今になって悔やむ。 (仕方ない。姉さんにはちょっと挨拶して帰ろう)  がくりと肩を落とし、先程まで楽しみにしていたことをすべて諦める。非があるのは、姉の都合も鑑みずに勝手に押し掛けた自分だ。  気持ちを切り替えるべく細く長く吐息していると、ガチャリとドアノブが鳴った。アパートの古いドアは軽く軋んだ音を立てながら開き、姉が顔を出す。 「お待たせ、まゆみーって、ビショ濡れじゃない! どうしたの?」 「どうしたのって……いやー、ええと、エヘヘ」  彼女は濡れ鼠の私を見るなり驚愕し心配してくれたけど、どうしたの、と訊きたいのはこちらの方が強い筈だ。  何せ、姉の肩まで伸びた髪はやや乱れ、ワンピースの裾は軽くめくれている。上に羽織った薄手のシャツは袖が不格好に捩れ、如何に慌てていたのかが手に取るように分かる。おまけに、夏の暑さやほんのちょっと慌てただけでこうなるとは思えない、軽く上がった息と上気した頬は色気さえ感じさせた。  思わず目を逸らし、その姿を隠したくなるような姉の様子に、私はただ目を泳がせて誤魔化し笑いをするほかなかった。
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