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◆ ◇ ◆ ◇
「まったくもう。なんて困ったひとなのかしら」
サアサアと降り注ぐシャワーの水音に混じるように、女性の呆れ声が聞こえてくる。
この声の主は、私の恋人のゆづるさん。彼女が我が家に訪ねてきたのは、今から十五分ほど前のことである。
玄関で出迎えた私を一目見た彼女は、有無も言わさず家の中に押し入り、持参したレモネードを飲むよう指示をした。
半ば強引に差し出されたレモネードの、なんと美味しいことだろう! レモンの爽やかな酸味と匂い、蜂蜜の優しい甘さは実に好ましく、口内や喉をヒンヤリと冷やし、潤していくその飲み物に、ホッとする。
彼女に言われるがまま、一口一口を味わうようにゆっくりとレモネードを飲んだ後は、行き着く間もなく浴室に放り込まれていた。
「暑気あたりです、矢潮さん。こんなに暑いお部屋に籠もって、飲食もロクにせずに過ごしていたら、そりゃあ体も悪くなりますよ。適度な温さのお湯を浴びて体温を冷ましつつ、ついでに体も洗っちゃってください!」
日頃はおっとりとして優しい彼女が、険しい表情で捲し立ててくるのだから、今の私の体には、余程のことが起きているらしい。
締切の迫る原稿のもたらす切迫感や、彼女が訪ねてくれたのだから、もてなさなければ、という使命感を堪えて、「はい」と頷く他なかった。
それにしても。
ゆづるさんが家に訪ねてくるのは嬉しいが、できればもっと別の日がよかった。
なにもこんな、仕事が立て込んでいて、恋人と共に甘い時間を過ごせるような余裕もない時とか、猛暑でヘロヘロになっているような、最悪なコンディションの時に訪ねることはないのに。
おまけに、この蒸し暑い部屋にいては、私だけでなく彼女もマイってしまいやしないか。
(まったく以て、格好がつかないな。私の情けない姿と、とっ散らかった部屋を見て、ゆづるさんはきっと、幻滅するだろうな)
「はああーっ」
自らの恥ずかしい状況を目撃した恋人に、軽蔑されてしまうのではないかと考えると、情けなくて涙が出そうだ。
シャワーを終え、身支度を整えて、トボトボと浴室を出れば、ゆづるさんの気配は既になくなっていた。
(どうしよう、ゆづるさんに見放されたかも?!)
決して小さくはないショックを受けつつ、それでも彼女の姿を探す。
やはり彼女は部屋の何処にもなかったが、代わりに書斎にある変化が起きていた。
(手紙と……食事?)
原稿で散らかった机の隅に、置き手紙とお盆に載った軽食が置かれている。
『矢潮さんへ
ちょっと外に出てきますが、また戻ります。
軽いお食事を置いておきますので、気兼ねなくお召し上がりください。
ゆづる』
取り敢えず、彼女に見放されたようではないことに胸を撫で下ろしていると、有り得ない感触を肌に感じて、眉を顰めた。
(おい、どういうことだよ、これ?)
腰の辺りにわりと強い風が当たるのを感じて振り返り、思わず目を疑う。
部屋の真ん中にあるのは、あの、マイペース極まりないオンボロ扇風機。ソイツがなんら支障もなく、回っていた。部屋の蒸し暑さは浴室に入る前と然程変わらないが、扇風機のお陰で過ごせないこともない。
コイツの電源を入れたのは、間違いなく彼女であろうが、それはつまり、持ち主である私ではなく、彼女の命令ならば聞けるということか?
(腑に落ちない)
不満を訴えるべく扇風機を睨んだが、勿論、オンボロは素知らぬ顔で羽根を回すだけだった。
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