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なんだろう? このひとは、どうして私にここまで良くしてくれるのか。
暑気あたりで弱る私を救け、仕事に勤しむ私を気遣いながら滞っていた家事をし、部屋の中に影まで作ってくれ、その上、まるで魔法使いのようにポンコツ扇風機を動かすなんて。
おまけに、私の苦手をワケもなく解消してみせ、食事に困らないよう食料まで用意してくれた。
私は暑気と仕事で余裕がなくて、彼女をもてなすことすら忘れていたのに、彼女はそれに不満を漏らすことなく、寧ろ、献身的に尽くしてくれる。
「どうして」
たった四文字の、なんとも具体性に欠けた質問が、知らず唇から漏れ出た。
彼女は小首を傾げて、二、三度まばたきをした後に、ふんわりとやわらかに笑んでみせる。
「どうしてでしょうね。あなたが放っておけないから……かな」
――今朝のテレビで、今日は猛暑になると知って、真っ先に思い浮かんだのはあなたのことでした。
おもむろに蜂蜜漬けのレモンを口に入れて、あまりの酸っぱさに唇を窄めた彼女は、耳の直下を指で揉みほぐしながら、苦笑混じりにこう告げた。
「翻訳のお仕事でカンヅメ中の貴方が体調を崩していないか、確かに心配だったの。でもね、それはただの口実に過ぎなくて。本当は、安否確認に託けて、あなたに逢いたかっただけなのよ。
あなたのお仕事が終わるのを待とうと決めたし、訪ねるのは迷惑と知りながらも、結局、逢うのを我慢できなかった。駄目ね、私。自分の浅はかさと御粗末さに呆れてしまう」
――ごめんなさい、矢潮さん。私、我儘で。
真実を告白した彼女は、なにやら、己が不出来だ、としょぼくれているけれど、とんでもない!
彼女が私の多忙を知り、会うのを我慢してくれていたのは知っている。そんなのわかるさ、当然だ。私達は想いあった仲なのだから。
彼女が私を思って、逢うのを自粛したのは素直に有難かった。情けない話、仕事が滞り、恋人に構ってあげられる程の余裕がなかったのは真実だから。
そして、彼女がここを訪ねたことに関して、私は気を害してなど一切ない。彼女がここを訪ねた理由がなんであれ、私に逢いに来てくれたことには変わらず、それが男として、嬉しくないわけがなかった。
しかも、私の体調を気遣い、家事までやってくれた人のことを、浅慮だ、御粗末だ、我儘だなどと思う方が罰当たりだ。
私には勿体無いくらいによくできた、そして、本当にいとしいひとなのだ。このひとは。
それにしても、まさか、本当に私が暑気あたりを起こしているだなんて思ってもみなかったらしい彼女は、青褪めた顔でグッタリしている私を見て、さぞや驚いたことだろう。
私にしてみれば、私に逢うことを我慢できなかったと嘆く彼女よりも、彼女の肝を冷やさせた自分の行ないこそが、恥じるべきものだと思うのだが。
(反省してるさ、重々ね)
「あなたがいらしてくれたこと、本当に嬉しかったです。それに、あなたに助けていただいたお陰で、体調も回復しましたし、仕事の目処も立ちました。本当に、あなたには何から何までお世話いただき、感謝の念に尽きません。本当に、ありがとうございます。オンボロ扇風機も少しは改心したらしいので、今後は体調にくれぐれも気をつけて、余裕を持って仕事に励みます」
「扇風機?」
それがどうした、と言わんばかりに首を傾げ、すぐ脇の扇風機を見遣る彼女は知らない。
自分が知らない内に、持ち主の言うことを聞く気のないオンボロを改心させただなんて。
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