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和子の実家にはタバコ屋があった。
玄関から伸びる廊下を真っ直ぐに進むとちゃぶ台の鎮座するリビングへ。更にその奥に行くと台所に突き当たる。流しに向かって右を向くと、向かいの大通りの景色とタバコの箱が整然と並べられたカウンターと、一脚の椅子が目に入る。
真っ直ぐに伸びた母の背中もいつもそこにあった。厳しくて、少し偏屈な所もあるこの母が和子は少し苦手だった。
和子が結婚して実家の近くのマンションに部屋を借りるようになってからはその光景を目にすることは無くなった。しかしある時、突然その母から電話があった。腰を悪くしたので明日病院に行くという。そしてあろうことか、店番を和子に任せると言い出した。
当然、和子は困ってしまった。
「だって私、タバコ屋なんてやったこと無いよ。休めばいいじゃない」
「こんなことでお客さんに迷惑かけられるかい。それにやることなんて、ただ注文されたものを渡せばいいだけさね。出来んわけないじゃろ」
「銘柄すら知らないのよ?」
「ごちゃごちゃ言わんと親の言うことを聞けばいいんじゃ。鍵は郵便受けの中に入れとく。明日一日、アンタの好きなように店を使いな!」
一方的に電話は切られた。
次の日、いつものように夫を送り出し、朝食の片づけと身支度を済ませると和子も家を飛び出した。生活道路を通り大通りのある十字路へ。久々の実家に着いて郵便受けから鍵をとり、玄関、リビング、台所へと進み、母のいないタバコ屋の裏側へ入った。シャッターはまだ降りている。開店の八時まであと三十分。和子はカウンターに並べられたタバコの箱を次々と取り出し、リビングへと運んでいった。一切合財が運び終わると、持参したリュックの中のものを次々と並べていった。
和子は半分やけっぱちだった。どうせ慣れない仕事なんて上手くいくわけがない。突然頼んでくる母が悪いのだ。ならば言われたとおり好きにさせてもらうとしよう。いい機会だ、どうせなら昔捨てた夢を叶えさせてもらおう。
カウンターにコーヒー豆を並べ終え、『タバコ』と書かれた看板に『純喫茶』と書かれたシールを貼ると、和子はシャッターを開け放った。時刻は丁度午前八時。
一日限りの臨時開店、純喫茶『タバコ』の始まりである。
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