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涼やかな風が流れる。九月下旬にしてようやく秋らしくなってきた。
バス停にサラリーマンやOLが列を成している。みんなスマホを指でなぞるのに夢中で周りには目もくれない。そしてやってくるバスの中へ次々と吸い込まれて行く。
カウンターに肘をついて、和子はそんな彼らをぼんやりと見ていた。開店して三十分。未だ来客はゼロだった。学生時代に少し離れた場所にある喫茶店でアルバイトをしていたときは、ひっきりなしに来客が来て大変だった覚えがあったので、誰も来ないというのはちょっと予想外の展開だった。やはりのぼりでも立てたり百均でパトライトでも買ってきてアピールすべきだっただろうか、そんなことを考えていた。
その時だった。
「おばちゃん! 四番ちょうだいっ!」
叫ぶやいなや、息せき切って男が和子の目の前に現れた。ジャケットを脇に抱え、カッターシャツの長袖を肘までまくり、流れる汗を手の甲で拭っている。未だ夏を引きずっているような若いサラリーマンだった。
「あれぇ? いつものおばあちゃんじゃないやん」
「母は腰を悪くして病院に行ってるんですよ」
「じゃああんた、娘さんか。まぁ何でもええわ。とにかく早う頼むわ」
初めてのお客さんに急かされ、和子は仕事に取り掛かった。
カウンターから四番の豆を取り出した。馴染みの店で急いで調達したキリマンジャロだ。台所へ駆け込んでミルで挽きハンドドリップ。カップは予め温めていた。出来栄えを確認し、和子は「お待たせしました」と言ってカウンターで待つ男へ手渡した。
男はあんぐりと口を開けた。
「……何や、コレ」
「ご注文のお品ですが」
「メビウス、ちゃうやん」
「はい。キリマンジャロです」
和子が言うと、男は発狂気味に言った。
「何言うてんねん! 俺ちゃんといつもどおりに『4番』言うたやん! なんでコーヒー入れてんねん!」
文句を言いつつ男はカウンターを指差した。指の先にあるのがメビウスでなくコーヒー豆であることに気づくと、男は「ええ?」と目を見開いた。
「タバコ屋ちゃうんかい!?」
男の問に、和子は応えた。
「タバコ屋ですよ? 本日限り、純喫茶『タバコ屋』なんです」
男を残し、バスは走り去っていった。
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