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整理ダンスの上に日本人形が立っているのを目にし、私は慄然とした。
そんな馬鹿な、と思わず声を洩らす。
その人形は、母の急逝後、遺品を整理した際に処分したはずのものだった。
おかっぱ頭に真っ白な顔、そしてこちらをのぞき込む大きな黒目。微細を極めた人形の顔は、まるで生きているかのようだった。身に纏う赤色の着物は、長い年月を経てどことなく色あせて見える。
実家を引き払うときに、ほかの遺品とともに間違いなく捨てたはずの人形が、どうして引っ越し先のアパートの部屋にあるのか。
私はごくりとつばを飲み込んだ。
――これはね、我が家にとって大切なお人形なの。絶対に、捨てようとしたらだめよ。
生前、母が幾度となく私に対して口にしていた言葉が、脳裏をよぎる。
――もし捨てたら、大変なことになるから。
真剣な口調で言う母に私は殊勝ぶってうなずきながら、内心では「たかが人形だろ」と鼻で嗤っていた。しかし、この現状は、もはや笑い事ではすまされなかった。
このアパートに越してきてから、今日で一週間だ。部屋にはまだ封を開けていない段ボール箱が乱雑に置かれている。
もしかしたら、と私は思う。捨てたというのは記憶違いかもしれない。手違いで自分の荷物に紛れ込み、そのままこのアパートまで運ばれ、酒を飲んで記憶が曖昧なときにでも引っ張り出してタンスの上に飾ったのかもしれない。私は無理やりそう自分に言い聞かせ、納得させる。そうでもしなければ、気が狂いそうだった。
翌朝、私は人形をつかむと、透明なごみ袋に押し込んだ。ちょうど今日は可燃ごみの収集日だった。家の近くのごみ捨て場へ向かい、山のように積まれたビニール袋の頂上に、私は人形の入った袋を放り投げた。
私は一抹の不安を抱きながら、職場へ足を向けた。
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