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疑惑が確信に変わったのは、それから一か月ほどたったころだ。
その日、私は何本目かの発泡酒の蓋を開けた。窓を開け、タバコをふかしながら、荒ぶる気持ちを静めようと、酒をぐびりと飲む。
「ミスをしたのはおまえだっつうのに」
今日、仕事で、上司が自分のミスを私になすりつけたのだ。見事な責任転嫁だった。何度思い出しても腹が立ち、ずっと我慢していたタバコにまで手が伸びてしまった。
「くそっ」と何度目かわからない悪態をつく。
どうやら私は、そのまま眠ってしまったらしい。
それから、どれぐらいたっただろうか。
気配を感じ、目を覚ますと、黒い二つの瞳が私をのぞき込んでいた。
ひゅっ、と息を呑む。
あの人形が、枕元に立っていた。私はがばりと飛び起きると、床に尻をつけたまま、口をぱくぱくさせながら後ずさる。
「なんなんだよ、なんなんだよ、いったい!」
私は声を絞り出した。
焦げたような臭いが、鼻腔を刺す。
はっと布団を見やれば、すぐわきに置いてあった灰皿からこぼれ落ちたタバコから、小さなオレンジ色の炎が出ていた。私は慌てて台所へ走ると、鍋に水を入れ、布団に思いきりかけた。炎は消え、黒く焼け焦げた跡だけが残る。
危なかった、と私は安堵する。もしあと少しでも遅れていたら、大惨事になるところだった。火は一気に広がり、私は焼死体となっていただろう。
枕元に立つ人形を、私は一瞥する。
「おまえ、もしかして助けてくれたのか」
部屋に強盗が押し入ったときも、この人形のおかげで私は殺されずにすんだ。今回も、この人形が私を起こしてくれなければ、いまごろアパートは炎に包まれていたはずだ。
――これはね、我が家にとって大切なお人形なの。絶対に、捨てようとしたらだめよ。
母の言葉を思い出す。あれは、この人形がずっと我が家を守ってきてくれていたという意味だったのではないだろうか。もしそうだとすると、この日本人形は、捨てても戻ってくる呪いの人形などではなく、むしろ、私を守ってくれる幸運の人形なのかもしれない。
私は居住まいを正し、人形と向き合う。
本物そっくりに作りこまれた顔は、やはり不気味だった。しかし、前ほど怖いと思うことはなかった。
私はこれまでの非礼を詫び、二度と人形を捨てるような真似はしなかった。
あの日本人形は、いまでも整理ダンスの上に立ち、私を見守ってくれている。
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