ひとつまえの恋

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 証券会社に勤める近衛直(このえなお)には、毎月2億というノルマがあった。  直が所属するのは、病院や学校、会社を顧客とする法人営業部だ。資金運用が主な仕事であるが、証券や株と言うだけで箒で叩かれ厄介払いされることもあれば、何度も通って渡した名刺をトランプにして遊ばれることもあるそうだ。それでも飛び込み営業をしたり、取引をしてもらえるまで1年でも2年でも足を運んで、自分の仕事は自分で取ってくるしかなく、身も心も削る仕事は定年も早いそうだ。  直からの電話はいつも夜遅くや真夜中に掛かってきた。残業のあとの疲れた声か、接待で宴席のあとの酔った声だ。 「あの会社の社長はすごい人なんだ」 「今月のノルマをやっと達成した」 「お客さんにもっと本を読めと叱責された」 「仲の良い社長と行った高級寿司屋で、注文するものを半紙に書いた」 「成績の良い同期がシアトルに栄転して羨ましい」  そんな風に言って、直はいつも愉しそうに仕事の話をしてくれた。辛いことのほうが多いはずなのに、愚痴などの後ろ向きな話は一度も聞いたことがない。本当は、弱音を殆ど吐かない直のことがいつもどこかで心配だった。どんな努力家にも、ガス抜きと弱音は必要なはずだから。  ある日の夜は、2年通った不動産会社の社長が「4億任せるから好きなように運用してみろ」と言ってくれた、と泣いていた。泣いているのには理由があった。その社長の話を会社に持ち帰ると、直の先輩がその案件は自分が対応するといって横取りしたそうだ。勿論逆らうことなど許されず、その先輩を社長のもとへ引き継ぎに連れて行った。 「会社とは取引をしない。2年もここに足を運んでくれた近衛直と取引をする」  その社長は引き継ぎに来た先輩を、そう言って一蹴したそうだ。数年で1度訪れるか訪れないかというそんな一瞬のために、直は心身を壊しながら奔走していた。大きなお金と経済と、人の心を動かせたときの感動、そのためだけに尽力できる人なのだ。直の人生の楽しみは仕事の中にあって、きっと生活も結婚もそのためにあるのだろうと感じていた。  そんな直の隣に並ぶわたしは、理学療法士として整形外科を専門とする病院のリハビリテーション科に勤めている。日々患者に合わせたリハビリのメニューを考え、それに励む患者の心身の支えになることが求められる役目だった。
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