ひとつまえの恋

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 だから、わたしに不満はなかった。わたしだって知識や技術が伸びた頃で仕事に熱中していたし、それ以上の姿勢で駆け抜ける直が、生き生きと輝いているのを見ていたかったからだ。わたしは直にこうしてほしいとか気にかけてほしいとかなんとか、求めることなど何もなかった。ただそのままの彼の姿をずっとそばで支えられたら、と夢見ていた。普段の何気ない会話の中に、結婚式のための貯金を始めたよ、次はここに住んでみたいね、なんて、直は将来を見据えた話もしていた。  だから、転勤の辞令が出て別れを切り出されるなんて、わたしは思ってもみなかった。転勤を縁の切れ目にする素振りなんて、直の笑顔の何処にもなかったのだから。 「仕事だけは信念を持ってちゃんとしろ、上を見て昇り続けろって、そう言われて育てられたから自分の生き方は変えられない」 「そのためには、距離が離れたら付き合えないの?」 「違う。もう気持ちがない。仕事のことしか考えられない」 「わかった、わかったから。ごめん、嫌いなんて言わないでよ」  二人が過ごした時間に嘘はない。平行線の主張も、この恋も、ここで終わりにすること以外に最適な選択肢はなかった。そんな受け入れ難い主張にまで、潔さや好意、直らしさを感じ始めていたのだから、わたしは観念して受け入れるしかないのだ。  だから、最後の言葉は「ありがとう」だった。  わたしは勇気を持って、大きな恋を見送った。  最後だと思っていた恋を失った。  悲しみの受け入れかたには人それぞれの方法がある。  わたしの場合は、あえてそれに立ち向かうことだった。正確に言うと、考える体力まで消耗してしまった頭では、もうそれ以外に思いつかなかった。  それからはDM以外で鳴らなくなったスマホを持て余した。ずっと興味のなかった流行りのSNSにもついに登録だけをして、それをたまに流し見るようになった。  そんなときだった。きっかけは、意味もなければ突拍子もない。適当にスクロールした指先に、小中学校の幼馴染のつぶやきが止まった。  『天窓から光の溢れるサロンを開業しました。リンクからホームページに飛べます。予約は直接でもお店でも気軽にどうぞ』  若くして開業に踏み出すパワーとその懐かしさに惹かれて、わたしにも自発的な行動力が久しぶりに湧いたのだ。
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