心を流す

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心を流す

「ごめん。嫌いなんて言わないでよ」  彼に別れ話を切り出されて思いの丈を散々抗議した後に、それでもわたしは直にすがりつくような言葉を投げた。 「ごめんなさい。きらいなんていわないで」  記憶のどこかで、わたしでも直でもない、子供の声がした。直は別れ話を切り出してから搭乗口に消えるまで、一度も謝らなかった。それはわたしと彼の時間に嘘はなかったからだと自信を持って言える。  しかし、では心の澱に混ざっていたこの声は誰だろう。すがるようなこの泣き声に、わたしは未だにちゃんと応えていないような気がした。 「流すよ」  違う誰かに声を掛けられた。彼でもない、澱に混ざっていた声でもない。誰だろう。 「あれ、大丈夫?」  あぁ、幼馴染だ。すっかり声変わりをして美容師になった、優しい指の持ち主だ。 「大丈夫」  反射的に答えて、声が掠れた。咽に纏わりつく違和感を解消するために、小さく咳払いをする。額の生え際ぎりぎりのところにシャワーのぬるま湯が当たって、頭皮がじんわりと温まっていく。わたしは彼の好みだった黒く長い髪を切りに来たのだ。そういえばあんなに情熱的だった指先は感情を失い、どこか冷静にトリートメントを流している。身体も意識も預けていたグレープフルーツの雲が、きれいに晴れた。  キュッと蛇口を締める音がして、目が覚めた。プールの底に沈んでいた体が、明るい水面を目指して浮き上がっていくようだった。薄目を開けると、頬を伝って流れた涙が耳の中にぽたりと落ちた。顔の上に置かれていた薄い紙がよけられて、代わりに白いタオルが頭を包む。何気ない動作のなかで、涙のあとも拭かれたような気がした。わたしは白に包まれたままユニットを起こされて、混濁した意識とタオルの重さで頭がふらふらした。頭を軽く拭かれたあと、急に現実の視界が開けた。  わたしは幼馴染が開業したばかりの新しいサロンにいた。何日か前に開業したという書き込みをSNSで見かけて、なんとなく行ってみようという気持ちになったのだ。ふらふらと自分の座席に戻ると、温かいドライヤーの風を当てられた。幼馴染の手際の良い髪さばきから、開業に至るまでの努力を感じた。  しばらくの間思考は動き出さず、夢見心地を引きずっていた。
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