1、映画館にて

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1、映画館にて

映画が上映されている。 観客は5人。 そのうちカップルは私たち1組。 隆の顔に、スクリーンの光がこびりついているのが少々気になる。 彼の回した腕は、今日も少し弱々しい感触を私に与える。 日に日に弱っていく彼の腕力。  もう随分前からわかっていたけど、わざと何も気がついていない振りを、自分に対してしてきた私。 今の私が、この映画の画面を隅々まで瞳に収めようとしているのは、この不安を何とかしたいからだ。 棄てられるのは構わないけど、またあんな気分を味わいたくない。 その嫌な気分がほんのちょっと忍び込んできただけで、私は必死で映画に執着しようとした。  大して幸せそうでもない孤独な他の冴えない男の観客が、なんだかとってものびのびした存在に見える。 一人の男が微かな笑い声を漏らした。 彼はただ映画が面白くて笑ったんだ。 私がさっき笑ったのは、あの嫌な気分に気が滅入りそうになって、その気分を押し殺そうとして笑っただけだ。  彼がうらやましい。 でも、そんな喜びは、きっと私にはあらかじめ存在しないのかもしれない。 私はみっともない女みたいに、彼の肩にもたれて、 「ねぇ、こんな映画退屈だから、いつもみたいに二人きりにならない?」 という顔をして、みっともない女の真似を隆の前でやってみる。  だけど一番肝心なことに気がついて、その時、私はぞっとしたんだ。 一番みっともないのは私だってこと。 誰がどう慰めてくれたって、これだけは確か。 私は一番みっともない女のやり方で、一番みっともない女を必死でやって、だけど自分が一番みっともない女だなんて絶対に思いたくなくて、理解したくないと思ってるうちに、結局自分が一番みっともない女だと一番知っているのは私だと気がついただけ。  腹の底から嘲笑う声が聞こえる。 一体何回、こんな一番みっともない女をやったら気が済むのか。 (バカじゃないの?) そう、バカなのよ。 あんたに言われなくたってわかってるわ。  私はそんなこともよくわかってるんだから、そう嫌味たらしく何回も言わなくてもいいじゃない。 わかってるわよ。 私がバカだってそんなこと、こんな暗闇の中で何回も言わなくてもいいじゃないの! だからわかってるのよ。 うるさい人ね。 認めているのにどうして許してくれないの? もうそんなに苛めなくたっていいじゃないの。 確かにそういうのを誤魔化そうとしてきた私は悪かったわよ。 でももう認めてるんだから、そんなこと責めないでちょうだい。 お願い。 (あんなに一生懸命色んなことをしてあげたのに) また、何処かから声がする。 いいじゃないの。 私の性格なのよ。 人のために親切に尽くしてあげて何が悪いのよ。 そりゃ、あの理沙なんか、平気で二股かけて、私をグズ呼ばわりして散々人のこと馬鹿にして、嫌な子だと思っていたら、周りのみんなも嫌な奴だって言ってて、いつかバチが当たると思ってたけど、バチが当たるどころか彼氏に愛されて、もう一人の彼氏なんかゴミみたいに振っちゃっても、幸せな結婚式やってさ、 うちのお母さんも、 「綺麗なお嫁さんだったね」 って浮かれてるしさ、二次会の帰りにみんなに泣いてもらって、私も何だか知らないけど泣いちゃってさ、 「幸せになってね」 って言ったけどさ、いいじゃないの、どうせ私はバカよ。 心にも無いことって、そんな、人が幸せ一杯なのに、そんな嫌味なことを言うことなんか出来るわけないじゃないの。 いいのよ。そんなの。 私に関係ないことだわ。 人のことよ。 何でそんな他人の話なんか… いいじゃないの。 うるさいわね。 関係ないの、そんなの。 でも、誰か気がついていないだろうか? 私がこんな一番みっともない女をやってるなんて事。 あのバカ面した男共にわかるわけないか。 でも隆はもう気がついているのかもしれない。 この自分の横にいるこの女は、一番みっともない女なんだってことに。 じゃあ、何でそう言ってくれないの。 でも思えばこの人は、いつも肝心な事は何にも言わない人だったわ。 私はいつもこの人は、私のことを考えてくれているんだって勝手にそう思い込んできたけど、自分の事しか考えてないんだわ、きっと。 でも私はいつもこの人に"自分のことをまず考えなさい"とか、"あなたの気持ちが一番大事なのよ"とか、偉そうに姉さん顔して言ってきたのよね。 何言ってんのよ、私は。 そしたらこいつ、本当に自分のことしか、私なんかに言われなくても考えてなかったじゃないのよ。 でも私が"そうしなさい"って言ったのよ。 文句なんか言えるわけないじゃない、 私がそう言ってきたんだから。 じゃあ何でそう言ってきた当のご本人は自分のこと全然考えてないの? バカじゃないの? 頭悪いんだが、いいんだかどっちよ。 誰かに大声で「バーカ」って言われたら気が済むかしら。 でもきっとそんなことしたら傷つくだけだわ。 傷ついたって別に何も変わらないわよ。 傷つかないように一生懸命やってもやっても、傷つく時は傷つくのよ。 もっとどうせ傷ついちゃうのよ。 それでもう、これ以上傷つきたくないと思っていると、どうにもならなくなっちゃって、自分が傷ついてることも忘れちゃうのよ。 それをいいことみたいに言ってるバカは誰? そいつを殺してやりたいわ。 何でそんなことがいいことなのよ。 "心の傷が癒された" "君もいつの日かきっと忘れるさ" 私は全部覚えてるわよ。 あのバカも、あのバカも、あのバカも。 どいつもこいつも覚えてるわよ。 でも私、誰にも「バカ」って言ったことないのよ! もう悔しくて、悔しくて、そんなこと… とても言えないのよ。 言ったら負けなのよ。 (何に?) 知らないけど負けなのよ。 全部負けになっちゃうのよ。 私は負けないわよ。 これでも負けん気強いのよ。 私は凄く強いの。 凄く負けたくないのよ、いつも。 歯を食いしばるってこういうこと言うのね。 人生には負けないわ。 私は今までの全人生を賭けて負けないのよ。 でも、どうしていつも私は負けてばかりいるの? どうして私の思いやりとか良心って傷つけられるだけなの? 誰にも負けてきたんじゃないの。 いつも一番みっともない女をやって、その上バカって思われてるのは誰よ。 あんたよ。 あんたしかいないじゃないの。 本当、バカじゃないの。 (あんた、今、隆がこの一番みっともない女に気持ち悪くもたれられて、気持ち悪い顔されてるのわかんないの?鈍い女だね。少しは人の気持ちも判ってあげなさいよ。嬉しいわけないじゃないのよ、こんなみっともない女に、こんな気持ち悪いことをされてさ。そういう鈍いところがあんたのみっともないところなのよ。バカなところなのよ) だから、バカなのはわかってるわよ。 みっともない女やってるのも認める。 一番みっともない女やってるのも認めるし、隆が気持ち悪がってるのだって知ってるわよ。 私頭いいのよ。 それぐらい判ってるわよ。 でも、急にやめたら変じゃない? 隆が「この女、やっと今頃自分が一番みっともない女だって気がついたのかよ。気持ち悪かったのわかんなかったのかよ」とか思われるじゃない。 私は最初から自分がみっともない女だってわかっているのによ、 私は最初から気持ちの悪いことしてるって知ってるのによ。 (最初からじゃないでしょ) またどこかで嫌なツッコミ。 私の声で。 最初からじゃないけど、もう細かいわね。 そうじゃないけど、ちゃんと相手の気持ちを理解して、私は気持ち悪いことをしてるって認めたじゃないの! 一体どういう文句があるわけ!え!? 私はみんなわかってるのに、「やっとわかったのかよ」ってどういうことよ!え! 私はこんなに相手の気持ちを考えて、私の過ちを認めているのに、この最初から自分の事しか考えていない男に、なんで「やっと」なんて言われなきゃなんないのよ。 いい加減にしてよ。 私が人がいいっていったって、もういい加減にしてよ。 (バーカ) 私のことじゃないわよ。 この男のことよ。 私もそりゃバカだけど、今こいつの話をしてるのよ! そのぐらいすぐに判りなさいよ。 だからバカだって言うのよあんたは。 このバカを何とかして欲しいわ。 よくもまぁ、こう自分のことだけ考えてられるわね。 ところがよ、この間会った何とかカウンセラーは 「自己を確立した者だけが無理なく自分を生きられる」 とか言っちゃってさ、こいつがいつも言ってることじゃないの、「俺は俺だよ」って。 "俺は俺だよ"って、人のこと考えないだけのバカが自分のことだけ考えて、好きな時に好きなようにやってりゃいいわよね。 そのくせ私に言う事は「君は自分のことしか考えていない。視野が狭いんだよ」ってどの面してこの男はそういうことを自分を棚上げにして言えるのよ、このバカは。 だけどこいつ友達多いのよ、 親とも仲いいのよ、 女にだってモテるのよ。 爽やかなんだって。 こいつが? それは認めるわよ。 私だってかっこいいと思って付き合ってんのよ。 でもこいつのこの態度は何なのよ。 何でこいつ友達多いの? モテるの? 私なんか思いっきり親切にして、思いっきりみんなにも優しくしてるのに、友達全然いないわよ。 そりゃブスだからだってのは認めるけど、何で友達もいないの? 顔でみんな友達選んでるの? いつでもちょっとどっか行く相手がいないじゃない。 私一人で一日中ウロウロして、何もしないで家に帰るだけじゃない。 それにこんなに遊んでないのに、何で私にはお金がないのよ。 ゴールデンウィークでみんな海外に行って、今年なんか、あんなバカみたいな顔した子供が平気で飛行機乗ってるのによ、 私なんか映画行くくらいしかお金ないじゃないの。 あの子らなんか会社終わったらしょっちゅう飲みに行ったり、クラブとか行ったり、カードでバンバンブランドものとか買ってるのに、何で海外旅行出来てその上結婚資金まであるの? 私なんか同じ給料貰ってるのに、こんな安物の服しか買えなくて、カードも怖くて使えなくて、どこにも遊びに行ったことなんかなくて、海外旅行なんか絶対できないし、結婚資金もないのよ。 私は一体何にお金使ってるわけ? だからバカなんだと言われたって全然わかんないわよ。 毎日家でゴロゴロしてるか、DVD見てるだけの生活で何で貯金も遊ぶお金もないのよ。 もう悔しい通り越してバカバカしいわ。 それに何でこいつの映画見るお金やカラオケで歌うお金や、"フランス料理食べたいな"って、"なんかデートらしくなるかな"なんてくだらない理由でこいつの分まで私が大金払ってんのよ。 何で最近は全然行ってくれないけど、最初の頃会う度に私がホテル代払ってんのよ。 こいつは会ってから1回も「愛してる」なんて言ってくれないじゃないの。 前に聞いたら「全然愛してないよ」って言ってたじゃない。 なのに、何で私は次の日に平気でヘラヘラしてこいつに電話できるのよ。 一体どういう神経してんのよ。 その上、何で「私はあなたのこと好きよ」なんて言ってるの! どういう考えがそんなことをこの男に言わすのよ。 で、その後、"これが恋の苦しみなんだ"とか、"私も大人の関係が出来るようになってきたな"とか、そういうことを思えるのよ。 それだけならまだしも、よくもまぁ会社の男の子に「いつまでも子供っぽいのね」なんて言えたな! え! もうバカ! 本当にバカ! このバカは誰にもバレないようにしなくちゃ駄目よ。 このバカは…あ、そうか、 前に私が帰りに先輩の理恵子さんの誘い、お金が全然なくて断ったら、 「あなたって全然遊んでない感じなのに、何にお金使うの?」 って言われてドキっとしたわね、昔ね。 あの人、勘が鋭そうな人だから、もうわかっちゃってるかもしれないな。 たぶんあの人、 「あの子は全然遊んでないのにお金がなくて、彼氏に「全然愛してない」って言われてるのに自分でフランス料理代まで払って自分を「待つ大人の女」だと思い込んでいるバッカの子よ」 って色んなところで話してるかもしれないな。 そんな嫌なことしなくてもいいじゃないの。 自分は全部何でも持ってるんだから、別にこんな何もない人間からまだ何をむしり取りたいわけ。 そんなことされたら私は飛行機に乗ってる、あのバカそうな子にまで、 「ああはなりたくないな」っていちいち言われそうじゃない。 そんなこと電話してきたらどうしよう。 あのバカそうな子が。 そしたら「あなたバカそうなんだから、私なんかに電話しないでよ」って言ってやるんだ。 そしたらまたしつこく電話かけてくるかもしれないわね。 でも何で私はあの子にライバル意識持たなきゃなんないのよ。 関係ないわよ、あんなガキ。 だいたい理恵子さんが悪いんじゃないの。 何でこの後に及んでそんな嫌な奴を"さん"付けで呼んでるのよ私は。  でも仕方ないじゃない。 あの人は立派な人なのよ、 かっこいいのよ。 私は憧れてたし、オシャレだし、頭いいし、何の無駄もなく生きている人なのよ。 その人を何でこのバカがちょっと嫌いだからって、 (嫌いって、本当のこと言われただけじゃない) 言われたわけじゃないでしょ。 でもそれはいいとしても、"さん"付けして、とか批難出来るのよ。 あんたがどんだけ偉いのよ。 そうやってグズグズ影で思ってるだけのね、 そういう気の弱い情けないことばっかりやってるから、こういうことになのよ。 本当グズな女! ("そう自分を責めるな"ってよく言うけど、もうちょっと反省した方がいいんじゃない) でもこの男にもっと愛情ある心で接していけば、必ず愛は報われるわ。 (あんた、相手は「全然愛してない」って言ってるのよ、それに何でそんなことするのよ?) 愛ある心が大事なのよ、素直な心が大事なのよ。 (あんたの素直な心は、こいつなんか大嫌いじゃない) そんなことないわよ。 そんなことないよ。 (全然愛してなんかいないじゃない) 違うの、あんたには女心がわからないのよ。 (私女心じゃないのよ。それ以外の何よ?私はあんたの本心じゃないのよ) わかってないのよ。 私はあの人が好きなのよ。 何か文句ある? あの人と一緒に歩いてるだけで、世間に私を普通のまぁ今時の恵まれた女に見せることができるのよ。 あの女コラムニストや、テレビコメンテーターのおじさんたちに「今時の若い子は…」って言われるじゃない。 あんな気持ちいいことないわ。 ああいうこと言われてるうちが花なのよ。 私は恵まれているが故に社会でバカにされてるのよ。 本当のバカが、バカだからバカって言われるんじゃないの。  羨ましがられてバカって言われるの、そんなの最高じゃない。 でもそんなくだらないおじさんや言いたいこと言って勝手なことしてるだけのコラムニストのおばさんにバカにされるために、私はどれだけバカなことばかりしてきたのよ。 世間にバカって言われてる時だけが本当に幸せで、そのために本当のバカなことばかりしてきて、もうバカでバカで自分を殺してしまいたい…。 今まで本当に世間でバカって言われてる、本物の恵まれたバカな女の子と話したりするのがすごく怖かった。 なんかいつかバレるんじゃないかって、いつもすごく不安で。 でも本当にバカな女の子のフリをして、そう見てもらうためにもっとバカなことばかりしてきた私のバカをどう言うの? 本当のバカのためのバカ? 本当のバカのもっとバカ。 それとも最低のバカが世間のバカ程度を装った? もうどれでもいいのよ。 バカはバカよ。 そんだけよ…。 映画が終わって、物語が何が何だかわからなかったくせに「面白かったね」っていちいち言う自分はもうたまんないわね。 それで「つまんないんじゃない?」って言われてやんの。 この人は映画ちゃんと観てたんだからこの人の言う通りでしょうよ。 私は何も見てなくて、一生懸命一番みっともない女をやってただけなんだから。 でどうせまたこう思われるのよ。 「こいつはこんな退屈でくだらねえものが面白いって、どういうバカなんだ」ってね。 でも私は何も言い返せないのよ! だって私は映画なんか全然見てなくて、一番みっともない女を一生懸命やってただけなんだから!
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