第二章

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その女性が運び込まれてもう3日は経っているだろうか。 共同の病室の中に、不思議な身元不明の女性が運び込まれたのは深夜のことで、彼女は自宅で首を吊った姿で発見された。 普通ならこうして病院に運び込まれること自体が間違いであって、霊安室へ直行するのだろうが、彼女の場合少し変わっていて、つまりまだ死んでいなかったのである。 命がまだある、簡単に言えば心臓が停止していない限り、こうして病院に運び込まれるのは当然なのであるが、しかし彼女は死んでいるも同然だった。 ほとんど植物人間状態で、心臓は停止していないが、何も出来ない見事なオブジェであった。 そういう状態がもう3日続いている。 経験から言って、彼女は一生この状態で生きるだけのような気がしていた。 今までそれほど何人も植物人間と化した患者に出くわしてきたわけではないが、なんとなくそんな感じがしていた。 私の仕事は、ただ同じ病室にいる他の患者の世話をしたり、注射を打ったりといった仕事で、彼女とは直接関係なかったが、ただ近くで見ていて、妙にそんな感じがしたのである。 私はあまり患者のことに普段興味を持たない。 こんなことを医師や婦長などに話したら、かなり訝し気な視線を投げかけられるだろうが、事実、私は基本的に患者を人間と思っていない。 ただ醜く爛れた肉体を抱えた哀れな肉の塊だと、いつも私の本心が囁く声が聞こえていた。 やたらとのろのろと歩きまわり、廊下の壁にダルそうにもたれながら歩いて行く奇怪な物体。 それがまたベッドに横たわり、白痴的な顔つきで天井を見上げている姿を見ると、何かいつも可笑しくなってくるのが常だ。 足の悪い患者がびっこを引きながら歩きまわる姿など、いつもトイレに隠れて笑いでもしないと仕事にならないほどだった。 老い先短い老人が、凄惨な顔つきで自分の肉体の不備を嘆いている表情を見るのも好きだったし、前に腕を怪我した患者が、転んで床に腕を打つところがどうしても見たくて、床に菜種油を強く塗っておいたところ、その患者は見事床で包帯をした方の腕を打ち、怪我の治りが遅くなったということもあった。 この時も何か途轍もない、心からの歓喜を感じたものだ。 しかし1週間後、事態は私を暗澹とさせる方へと向かった。 その患者に食事を運び、軽く話をしたところ、なんとその男は入院が長引いて会社を休むのが伸びたことを心から感謝してたのだった。 「まぁ怪我が酷くなったおかげでゆっくり休めますよ。ハハハ」と私を愚弄するように嘲笑した。 いや、彼にはそんな気が全くなかったかもしれないが、私にとってその笑いは愚弄以外の何物でもなかった。 私はその男を睨みつけて、 「もっと自分の体のことをよく考えて、1日も早く退院されることを考えてください」 と尤もらしいことを言ったが、だが男は軽く笑って、 「看護師さん、そんなに追い出そうとしなくたっていいじゃないの」 と言ってきた。 追い出すだと! 私はお前を傷の痛みで怯え上げさせてやろうとしたのに、その傷の深まりを喜んでいる上に私を罵倒し、挙句の果てにはこちらの気持ちにズカズカ入り込むように  「追い出さないでよ」 だと! 私はその時、暗澹とすると同時に、激しい憎しみを感じた。 どういうことがあってもこの男は痛みが残ったまま退院させ、治療を求めてもそれがままならず、痛みと苦しみが共にこの男の生を覆い尽くすことを望んで仕方がなかった。 腕が効かない奴が何様のつもりだ! 私はそう内心怒りながら、その男の顔を見るのも嫌になり、それからはわざとこの男を他の看護師に任せて、こちらは男の醜聞や悪口を医師や看護師たちに広めて回った。 「あの男は本当はたいした怪我でもないのに大事なベッドを占領している」 「あの男は食事を運んだ時などにそばによると、お尻を触ったり、卑猥な話をしたりする下品なセクハラ野郎だ」 「あの男は会社からも家族からも見放されている男だ」 「あの人はわざと転んで入院を長引かせ会社を休もうとしている」 などなど…。 こうして、世間話の間に何気なく男の醜聞を挟んで多くの人間の耳に流通させ、誰もが彼を白い目で見るように仕向けた結果、男は予定よりも早く病院を追い出され、挙句の果てには会社自体もその後解雇になったようだった。 何故なら、私が同じ病室の患者を装って、会社に電話をし、彼が不当に病欠休暇を長引かせようとしていること、企業秘密をやたらと漏洩して回っていること、女性に対するセクハラ行為が酷いからなんとか処分してくれと嘘の抗議の電話をしたからだった。 これは、私が施してやった傷の痛みを、ちゃんと苦しんで私を喜ばせるのではなく、私を愚弄することで恩を仇で返したんだから当然の報いである。 私はそのように認識し、彼の人生の過ちによる転落をただ笑うしかなかった。 彼は人間ではなく、ただ醜く歪んだ肉体を持った物体としか思っていない私は、いつの間にかこんなことばかりを楽しむようになっていた。 つまり私は患者に人間としての興味を持っていなかった。 この男のことなど、知ったことではなかったし、その人生にも興味がなかった上に、もののついでに、その破壊を楽しみたかった。 しかしこの3日前に運ばれてきた自殺未遂の女性=物質人間には何かとても人間的な興味を覚えたのだ。 それは何がそういう好奇を誘うのかわからなかったが、私は今まで病院に勤めてから初めて患者に対して好意の感情、人間に対する感情を持ったのであった。 その理由はさっぱりわからないのだが。 私には恋人がこの病院にいた。 勤務医をしている若いインターンで、将来は実家の大病院を継ぐことを予定している金持ちのサラブレッドである。 勿論、金目当ての交際に過ぎない。 よくある女の処世術で、特に私たち看護師には極めて当たり前に転がっている処世術だが、同じ病院の若いインターをたらし込んでおいて、彼が実家に帰るまでには結婚しておくという、それは病院院長夫人というステータスを手に入れるためのよくある人生設計のための交際であったが、私はその恋人を少しも愛していなかった。 まぁ嫌いではなかったが、彼は結局私の人生設計の中の一部でしかなかった。 だから恋人というより、男がいて、女がいて、それが結婚制度を前提として演じなければならない人生の局面が存在し、その場合にそういう人生の制度を肯定して現実を少しだけ華やかに演出するための男性と表現した方が正確かもしれない存在である。 それ以上でも以下でもなかったし、現実的にかなり"おいしいもの"というだけだった。 ただ物凄く退屈でノーフューチャーな気分にはなる相手だけれども。 まぁでもそれは彼のせいじゃない。 この世に素晴らしい未来なんかあるわけないし。 彼はその一部だ。 だから私の本心は、この彼よりも、自殺未遂の植物人間の同性に好意を寄せているのかもしれない。 別に同性愛的な倒錯にはまっているとも思えなかった。 第一そんな趣味は私にはないし、彼女はその風貌が、女性から見ても美しいと言えるほどの美貌に恵まれてすらいないわけだし。 我ながらおかしな感覚な気がした。 あの女をどうしたいのか?そんな事はさっぱりわからない。 それにまだ彼女に20メートルより近距離に近寄ったこともない。 何か近寄るには、特別な勇気がいるように感じられるのだ。 ただ私はあの女に、何かとても私が人に打ち明けられないような重大なことを知られているような気がしているのだ。 それは自分でもよくわからなかった。 彼女が何を知っているのか、私が何を誤魔化しているのか。 ただ彼女は私が避けて通りたい事の全てであるように感じていたし、それが何なのかははっきりどころか全くわからないといううっとうしい気分が、あの女を見てると催されるというだけだった。 あのどこを見ているのかさっぱりわからないが、視界がやたらと鮮明そうな瞳。 そう唯物的に魅力的というわけでもないあの瞳が何を見てるのか、それが知りたくてたまらない。 視界はいつも一定の直進方向しか向いておらず、その顔には白痴的な表情とすら言えるほどの「無」が漂っていた。 あれほどの無表情を私は今まで見たことがない。 それに、そのことが何一つ意味など成していないことにも驚くしかなかった。 勿論、元来人間の表情が何かの感情や心理や状況を表しているなどというのは、架空の空想的解釈の範疇を出るはずもなく、その解釈のほとんどは知覚心理学の考えからいっても、それを分析する者の心理や感情をそこに勝手に夢想するものでしかない可能性だってある。 前に私は患者同士がベッドとベッドを挟んでにらみ合いの喧嘩(と言うより冷戦)を行っている病棟のそのベッドとベッドの間に入ったことがあるが、「何を怒ってるんだよ」と口にする患者のその顔こそが怒り以外の何も指し示さない形相だったことも知っているし、その分析される顔とは大方分析者の感情や心理を表してる場合が多い。 勿論、それ以外のケースも多くあるが、しかしその時解釈される顔とはどこかで分析者が潜在意識に持っている心理と通じるものでなければならないはずだった。 何故なら、もし分析者にその対象の心理や感情が全く存在しないなら、分析者は対象が表するものが何なのか、全く想像すらできないはずだからである。 しかし女の顔に溢れている「無」はそうした解釈を全て無効にしてしまうような「無」そのもののような顔だった。 いや、私が彼女に自分の中にある何かを全て知られているように感じているのだから、ひょっとしたらその空恐ろしいような「無」が私の中にも存在するのかもしれなかった。 断定できないがそういう可能性はあった。 しかし「無」という、何も無いことを前提にして、自身の内面を省みることなど、誰ができようか。 それはただ「無」であるとしか言いようのないものだったし、私の潜在意識に眠っている感情や心理かもしれなかったが、それに対して私は何も言うことが出来なかった。 彼女がいる病棟に来るたびに、私はまるで病院に大きな「無」の穴が開いているような、まるで不気味なブラックホールがそこに存在しているような錯覚を覚えずにはいられなかったのだ。 それは明らかにただの空想に過ぎなかったが、そんな空想を彼女がこの病院に、この病室に来るまで、私はまるで抱いたことなどなかった。  名状しがたい不安と名状しがたい状況と、分析しがたい「無」がただそこにあった。 他の患者たちの物体ぶりはただ笑えるものでしかなかった。 しかし私は、そのブラックホールのような肉体に慄然とし、ただ距離を介して、当て所もなく想像を巡らせることしか出来なかった。 そしてもし彼女のあの圧倒的な「無」の瞳に自分が吸い込まれてしまったとしたらという、恐怖と同時にどこか淫蕩な快楽でもあるような感情が、日に日に芽生えてくることに、何とも言えない不安感を募らせていた。
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