4、昔の話

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4、昔の話

でも私は子供の頃から何を我慢してきたのだろう。 とても厳しい教育を受けて育ったという記憶もないし、うちは特に普通の家庭だったような気がするし、ただただ、私は結構真面目な方だったというだけだ。 でも勉強なんか出来なかった。 真面目だけど成績の悪い子。 真面目で成績が悪いほど立場がないものはない。 みんなには好かれないし、先生にも嫌われているし、いつもクラスでビクビクしてなきゃいけない。 いつも何か我慢してる感じ。 でもそれはただ臆病で怖がっていただけだった。 自分のみっともなさなんか全部バレてるのに、必死に隠そうとしているビクビクした感じ。 私はだから自分の自然体っていうのが怖かったし、恥ずかしかったし、ただ我慢していた。 いじめられたことも一度あったけど、また再度いじめに遭うことをいつも恐れていた。 バカな子というのかな、やっぱり。 お人好しだった。 抜けてる子っていうか。 でもね私は昔、自分が抜けている子であることがとても好きだった。 とても自分自身安心だった。 "人のために何でもやってあげる優しい性格"って通信簿に書かれた時、本当は成績悪いからあんまり見たくもない通信簿なのに、そんなことを先生が書いてくれたから、よく開けて見返してたな、昔。 お人好しって言われるのが嬉しかったし、みんなもそれを悪口で言ってる風もなかったし。 お人好しであることが何か幸福につながると思ってたの。 そういう人間が一人いることが、とても何かいいことだと思ってたの。 でもいつ頃からだろうか。 自分がお人好しの女でしかないことがとても辛くて、自分のお人好しが他人にとって軽蔑の対象でしかなくて、ただの弱い人間として人に舐められているだけだと感じだしたのは…。 私は大人になるにつれて、私の中で大事にしていた"自分"を皆に毎日踏みつけにされて、誰にも助けてもらえないという気分ばかり味わうようになっていた。 もう今は私をお人好しと言う人はただ悪口を言っているだけだった。 人を利用しようと考えている人間だとすぐに分かる。 自分みたいな人間は、幸福を呼ぶどころか、ただ日々傷つくだけだという現実だけがある。 そういう人間が一人いることが、周りのどんな優しい人をも悪魔みたいにしてしまうということがわかった。 強く生きるっていうのは、自分勝手な人間をやることでしかなくなってしまったことに、私は何一つ文句も言えない。 だってあまりにもそういう生き方をしてる人が多いから。 それが正しいことになっていて、それが強い生き方らしいから。 前に会社でミスをして、だけど会社のみんなに嫌われていたので、とても悲しそうにその処理を誰にも助けてもらえないで一人でやってる子がいた。 私は定時に帰ったけど、とても気になったので、その日は外食した後、こっそり彼女が一人頑張っている会社に戻った。 彼女は真っ暗な事務所の中で一人で残業を頑張っていた。 でもその肩が少し震えていた。 泣いてるみたいだった。 彼女は泣きながら誰にも助けてもらえないで、自分が間違えた書類を作り直していた。 担当の課長も彼女が嫌いだったから、「明日絶対いるんだ!」って意地悪言ってた。 私は知ってる。 その書類が必要なのは明後日だ。 明日で十分間に合うことだ。 しかしみんなは彼女が嫌いだったから、そういう意地悪をしてた。 会社の先輩の女子社員が、更衣室で「絶対手伝ったりしたらダメよ」って警告してた。 私は忘れ物を取りに戻ったと彼女には告げて、本当はやっぱり何か怖くて帰るつもりだったけど、彼女が泣いているのを見たら、もう我慢できなくなって、そばに行って手伝ったりした。 私はパソコンが結構得意だったので、それから2時間くらいで書類は全部出来上がった。 彼女は泣いて何度もお礼を言い、自分がこの会社に向いていないこと、毎日すごく辛いことなどを告白した。 私はそれでも皆が皆嫌な人じゃないから、頑張りなさいよ、とアドバイスし、困ったことがあったら何でも言って下さいね。と優しく言った。 帰りに彼女とカラオケボックスに行って、カラオケを歌った。 彼女はとても明るい可愛らしい女の子みたいで、私は気に入ってしまった。 しかし次の日、会社に行くと彼女は辞めたということだった。 彼女は今日朝早く来て辞表を出したそうだ。 そして書類をなんと、うちのライバル会社の営業マンに売り付けたことが後でわかった。 結局彼女は会社に復讐したのだ。 そしてその時その書類を私と一緒に作ったことを、辞めた後、うちの他のOLに話して回っていたという。 「島田さんをうまく利用したの。あの人パソコン得意だから」と。 私は先輩OLに手伝ったことを詰られた。 他のOL達からは口をきいてもらえなくなった。 会社の機密が漏れたのだから、会社の上層部にも呼び出されて、私にも会社を裏切る意思があったのでは?と聞かれた。 私は結局居辛くなって会社を辞めざるを得なくなった。 そして仕事がなくて喫茶店でアルバイトしてしていた時、子供を連れた彼女が店にやってきた。 私を見て懐かしそうに話しかけてきた。 子供がいたから私は怒れなかった。 彼女はあの後、ライバル会社に就職して、そこの社員と結婚していた。 つまり機密を渡した営業マンと結婚したんだ。 幸せだと言った。 私に「あんな会社辞めて正解」と言った。 私は、ライバル会社に彼女が書類を売り込んだことで私が会社を辞めざるを得なくなったことを話した。 彼女はこう言った。 「あなたが勝手に手伝ったんだ」と。 「私は頼んだ覚えはない」と言った。 そしてこう言われた。 「私も嫌われていたけど、あなたも相当みんなに馬鹿にされてたよ」と。 私は今、このバイト先でもパートのおばさん達とコミュニケーションがない。 私がお店に出勤すると彼女たちは急に会話を止めてしまう。 そのくせ、自分たちが家庭の事情で来れない時は、一度替わりを引き受けたことがある私にいつも電話して来て、また仕事を替わってほしいとよく頼むようになり、私は1日15時間ぐらい働いたこともある。 もう1人の学生のバイトの女の子は、お店のマスターや若いバイト学生の男の子とすごく仲が良い。 私は彼らと話したこともあまりなかった。 私は今彼女に言われたことが、このバイト先での自分の立場のようにも感じられた。 だから何も言えなかった。 自分の本性が暴かれたような気がしていた。 彼女はこうも言った。 「あなたも会社で皆に馬鹿にされているから、浮いてる私を助けてくれたと思った」と。 じゃあ私がまるでお姉さんみたいに彼女に色々アドバイスしてあげたことを、この人はどう受け止めていたのだろう。 元気づけてあげようとカラオケボックスへ行ったことをどう思っていたんだろう。 彼女はこう言った。 「あなた、"困ったことがあったら何でも相談して"って言ってたけど、あなたみたいにはなりたくなかったから私は会社を辞めたし、ああいうことしたのよ」と。 その時、彼女の可愛い顔をした子供が泣き出した。 彼女はとても優しいお母さんの顔で子供をあやしていた。 とても幸せそうに見えた。 私が羨ましそうに見ていると、彼女は「あなた結婚は?」と聞いた。 「相手がいないから、まだ」と言ったら、 「早くしたほうがいいんじゃないの」と今まで以上の軽蔑の表情を浮かべてそう言った。 そして別れ際「家に遊びに来てよ。郊外に一戸建て新築したばかりだから」と言われた。 彼女はどうして会社で嫌われていたか、それはものすごく自分勝手だったから。 自分のことしか考えていない人間だったから。 でも私は今、そんな虫けらみたいな人間より情けないのだ。 私は彼女と無駄話をしていたことをマスターに叱られ、パートのおばさんにも嫌みを言われ、結局そのバイトも辞めてしまった。 その時、私は勿論彼氏なんかいなくて、お金もあんまりなくて、次のバイトも見つからず、ただただ毎日、自分が生きていることが恥ずかしくてしょうがなかった。 お金がないので通っていた図書館で、太宰治の本を読んだ時、 「生きるということは恥ずかしいことです」という一節が出てきて、それはある種の情けない人間についての言葉だと勝手に察知した。 と同時に、自分がこの先あらゆる幸福と呼ばれるものから遠ざかっていく予感がしていた。 本棚の整理をしている職員の人が本を誤って落としてしまったので、拾って一緒に本棚に入れてあげた。 職員さんが「ありがとう」と笑ってお礼を言ってくれた時は少し嬉しかったけど、その人が行ってしまって他の仕事に追われている様を見た時に、なにか、とても懐かしいものに出会った後に、それをすぐに無碍に売られてしまったような気分になった。 私は一人ぼっち。 でもそこに何の感傷もなかった。 ただ社会からも、時間から何からも見放された人間が現実にここにいるというだけのことだった。 孤独にも浸れなかった。 だってそんなことを孤独だなんだと言ってしまったら、今より笑われるような気がしていたから。 私は孤独という言葉を嫌悪するような気分になりながら、そして必死に孤独などと口にしている凡庸な作家の本をせせら笑いながら、ただ孤独に、誰もいない書棚の前に立っていた。 でもそんな誰もいない古びた黴臭い場所で独りでいることが内心とても幸福だった。 もう何処にも行きたくないほどだった。 ここで、まるでここにある古い本のように、静かに苦しまずに死ねたらな。 そして死体も誰にも発見されず、静かに腐ってしまいたかった。 地獄にも天国にもどこにも行きたくなかった。 独りでここにいたかった。 このまま、この大きなたくさんの書棚が倒れてきて、その下敷きになって、ずっとじっとしていたかった。 そしてそのまま安らかに死にたかった。 とても心地よく… 眠るように…。
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