その男、水槽

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 一歩、足を踏み込めばソレは直ぐに顔を出した。  トイレの入口に白い顔が浮かび上がる。性別も年齢も分からないが、窪んでいるドス黒い色をした目からは明確な敵意がヒシヒシと伝わってきた。瞬きもせずにこちらを凝視する。  ふと、それがゆらりと動いたような気がした。そのとたん肉を腐らせたようなキツい臭いがブワりと広がった。風上、風下関係なくその物体が動く度に辺りに臭いが散乱した。袖で鼻を塞いでも意味が無いのは分かっている、だがこの臭いはいただけない。龍真は鼻を摘みながら顔を思いっきり歪めた。 『……ァ ゥア……ア……』  ニチャリ、と開かれた口が音を放つ。通常の空気が揺れて発せられる音ではなく、憑物特有の脳に直接届くような音。それでいて異様に耳にこびりつくその声が聞こえる度に、鈍い痛みが頭の内側に走った。 『ギ、ヒヒ、ヒヒヒヒヒヒヒヒ』 「これだからお前らには関わりたくないねぅ……うぇくっさ」 『ァ゙アアアハハハハハハハ!!!』 「あー!ウルサイウルサイウルサイ!っどわっ!?」  白い手が叫ぶような笑い声と共にこちらへと伸ばされる。すぐに後退すると、一定の距離で手をウロウロさせているのが見えた。なるほど、自縛型かと龍真は独りごちた。 「んー、どうしようかね。サッサと喰ってはい終わり!もいいけど」  その場にしゃがみこみながら一人首を傾げた。足元の腹を空かせた金魚達は影からパクパクと開閉させている口を出してアピールしている。目の前に異常があるのにも関わらず龍真は金魚の口に指を突っ込んだりと緊張感の欠けらも無い。  白い顔が苛立つように膨らみ始めた。じわじわと手との距離も縮んできている気がする。 「……よし、決めた」  スっと立ち上がり龍真は前を見すえた。緑の瞳がソレを捉える。キュゥ、と楽しそうに目元が細まった。 『ゥァアヴヴヴ、ウガァアァァアアアア!!!』  焦らしに焦らされた憑物は大きな咆哮を上げながら乱暴に手を振り回す。龍真はその中へ迷いなく軽い足取りで入っていった。  相手のテリトリーに入ればすぐさま無数の手が襲い来た。四方八方から来る手は逃げ場を無くすように覆い被さる。絶望的な状態にも関わらず、伸ばされる手が子供の手のようだと観察する余裕さえ彼にはあった。  どんなに力を付けようとも、龍真には関係ない。 ───ポタリ  食事の合図が鳴り響いた。
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