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カラン、と小気味のいい音を鳴らして、彼の働くバーに入った。
「いらっしゃいま…せ」
グラスを磨いていた彼が顔を上げこちらを見ると、流石に他の客の手前、言い澱みながらも他人のふりを決め込んだようだ。
いつもは薄めの化粧も、今日は濃く。
高いピンヒールに、ボディラインにぴったりフィットするドレスワンピース。
髪は美容院で明るめのカラーに染め、巻いてある。
「見て、あの人……。すごく綺麗。モデルさん?」
カウンターに座っていた女性客2人組がこちらに向ける視線を感じながら、
私はまっすぐに彼の元へ歩いて行った。
バーカウンターを隔てて、向かい合う。
目の前に立たれ、無視を続けるわけにもいかないと思ったのか、彼はばつが悪そうに口を開こうとした。
私は彼が言葉を発するより早く、小洒落た蝶ネクタイを掴みこちらへ力任せに引き寄せると、
噛み付くようにキスをした。
乱暴に手を離すと、彼はバーカウンターに中途半端に身を乗り出しながら目を見開いている。
薄っすらと笑みを浮かべながら、私は言った。
「私が貴方に遊ばれたんじゃない。貴方が私に遊ばれたのよ」
彼は何かを言おうと口を開いたが、うまく言葉にならないようだった。
私は彼の言葉を待たずに身を翻し、硬い床を打つピンヒールの音を響かせながらバーを去った。
いつも澄ましている彼が初めて見せた、まるで豆鉄砲を食らった鳩のような表情を思い返し、堪え切れない笑みを洩らしながら。
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