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行く当てもなし、知り合いもなし、己がろくに里から出たことのなかった箱入りであったと自覚させられる旅路である。
人が多いという江戸の街に向かってみようか、と火白の足はそちらに向いていた。
火白がいるのは、川沿いの街道である。川に沿って桜の木が植えられ、葉陰が街道に不思議な模様を描いていた。人の流れはまばらで、時折後ろから火白を追い越して行く旅人たちは、俯き加減に早足で行く者のほうが多かった。何せ、季節は夏とはいえもう日の暮れる時分であった。
日があるうちに人里に辿り着かなければ、野宿になる。そうなれば、獣や追剥の餌食にもなりかねない。
尤も、鬼である火白にはただの獣や人間は、敵にはならないのだ。故に、急ぐ旅人たちの中に会おうが、火白は日暮れの川を眺めるのも良いものだ、とのんびりとした足取りだった。
そうして、ふらりふらりと歩いていた火白の鼻は、ふと木の陰からこちらに向けられた視線を感じた。
思い立って、辺りに旅人がいないことを確認してから、土を蹴る。ぽーんと毬のように跳ねて、火白は一際高い松の木の上に降り立った。
そのまま、ひょいひょいと猿よりも軽い足取りで、木から木へと跳んで行く。 程なくして、火白は人の気配が絶えた川べりに降り立った。
「さてと、ここならば誰もおらぬよ。おれを追って来たのは誰だ?」
河面を見つめ、背後に向かって問いかける。寸の間の後、木の上から跳び下りて来たのは、ひとりの青年だった。
火白よりやや背が低いが、女のように長い黒髪を項のところで束ねている。秀麗なその顔を見て、火白はおや、と瞳の奥の金色の光をきらめかせた。
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