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雪トは他の鬼とは違う。まだ幼い子どもの時分に、火白が己の血を与えて鬼にした、元人間だった。そのため、彼も人は喰えない鬼だったし、前世が人であるが故、人を喰えないという火白の事情も知っていた。
前世が人だったという記憶を火白が持っていることを知っているのは、父を除けば雪トと、あとは別の里に住んでいる許嫁だけである。きょうだいたちに打ち明けなかった事情を教えたという点でなら、雪トは火白にとって彼ら以上に親しい存在だったのだ。
「おれは誰も恨んでおらんよ。遅いか早いかだけで、いずれこうなることが定めだったのだろうさ。おれと同じように怒るなとは言えぬが、そうかっかするな。額のしわが取れんようになるぞ」
そういうと、雪トは額を押さえた。
「おい、嘘だぞ。本気にするなよ」
「知ってるっての。今のは、呆れて頭痛がしただけだ」
表情をからりと改めて、雪トは横目で火白を見、膝を叩いた。乾いた音が、川面に消えて行く。
「言いたいことは色々あるが、まずはこれだけ言っておく。俺もあんたについていくからな」
やはりそうなるか、と火白は煙を吐き出す。里に戻れと言ったところで、戻らないだろう。この従者が軽薄そうな見た目に反して、言い出したら聞かない頑固な性格をしていることも、命を助けた自分に忠を誓っていることも、わかっていた。
わかっていて、しかし火白は里から放逐されてからの丸ひと月もの間、彼には便りを出していなかった。代わりに、別の者に便りを出して、雪トをよろしく頼むと言っていたのだ。だが、この分だとその手紙はてんで意味を成さなかったらしい。
手紙を出した者の里は、妖たちの里ではあるのだが、氷上と違って人を喰わねばならないしきたりもない。元が人間の雪トは、訳あってそこに何度も通って馴染みになっていたから、受け入れられるはずだった。
だが、氷上の里から髪まで切られて正式に追放されてしまった火白は、その里には住めない。
前世が人だからというあやふやな理由で、一人前の鬼と認められない浮草のようになる道を選んだ阿保につき合ってくれと、言えなかったのだ。
だが、この従者はあっさりと姿をくらませていた火白を探し当ててしまった。
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