ファスナーの中

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 戸惑うしかできずにいた俺の耳に、寝袋からぼそぼそとした声が聞こえてきた。 「中、見たい?」  唐突な申し出に対応できずにいると、同じ質問が繰り返された。 「中、見たい?」  見たいか見たくないかで聞かれたらそれは当然『見たい』だ。でも気持ちの奥の方に『見てはいけない』が存在している。  だから返事ができずにいたのだが、寝袋の中の相手は、俺の沈黙を肯定と受け取ったようだった。  そろそろとファスナーが下がっていく。中を見てはいけないという気持ちが俺に目を閉じさせる。 「…見ればよかったのに」  その声が聞こえた直後、別の声が俺の名前を呼んだ。  振り向くとそこには同じアパートの住人がいた。ごみを捨てに来たら俺が立ち尽くしていたので声をかけたらしい。  寝袋のことを話そうとしたが、視界のどこにも寝袋はなく、俺は相手に、ゴミを捨てに来たらたちくらみがして少し動けずにいたと嘘をつき、その場を離れた。ちなみに、後でもう一度ゴミ捨て場を覗いてみたが、やはり寝袋はどこにもなかった。  市内で殺人事件があったというニュースが報道されたのは、それから一週間程が経過した頃だった。  犯人にも被害者にも全く見覚えはなかったが、ニュースの中で報じられた、犯人が一時死体を隠すために使用した寝袋は、あの日俺がゴミ捨て場で見た品そのままだった。  気になりニュースを真剣に聞くと、事件が起きたのはまさしくあの日だった。  じゃあ俺が見た寝袋は、犯人が死体を隠そうとした状態の…でもあの時、俺は中の相手と会話をしたんだ。それに他の住人に声をかけられた後、寝袋は影も形もなくなっていたじゃないか。  どういういきさつで、あの寝袋がうちのアパートゴミ捨て場に出現したのかは判らない。ただ一つはっきりしているのは、俺は中を見なくて正解だったということだけだ。  目の前で下がりつつあったファスナーの中には、いったい何が存在していたのか。気にならなくもないけれど、絶対に、見なくてよかったのだと思う。 ファスナーの中…完  
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