終末の週末

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学者たちは脳内記憶までは管理しているが、身体機能に関する制限を彼女らに付けてはいない。あくまで人と同じであるものとして、人工ではあるが、臓器から骨組みまですべて人と変わらないもので彼女らは出来ている。簡単に例えるのならば、彼女らは脳だけが器械であるのだ。ただそれだけが人と彼女らの違いでしかない。それを人工物と呼ぶにはあまりにも学者たちと彼女たちには差異がなさすぎた。 記憶は五年しか持たない。それが、彼女らのメモリー容量の限界だった。 無理もない話だ。何せ彼らの記憶は映像で保存されているのだ。見たままの景色をそのまま保存して生きていくのだから、いつかは容量限界が来るのも当たり前だろう。むしろ、人の脳と同じ形の記憶媒体で、五年も保存できることを褒めてもいいほどだ。 本来は、もっと持つはずだと言われているが、個体差があるのだ。一日中家にいて代り映えしない日々を送る個体もいれば、各地を飛び回り、様々な情報を保存する個体もいる。そうなると必然的に、情報をたくさん保存する個体に全体のラインを合わせなくてはならない。五年という年月はそれを踏まえて導かれた期間だ。 彼らは五年経つとメモリーを消去され、また新たな人生を歩み始める。無論、今までの事を一切忘れるのだから、手助けが必要となってくる。生きていくうえでのサポートをして、問題があればそれを上へと報告する。それが、学者の仕事であった。 記憶の更新が行われる週末に、一個体の意識の混濁が見られたとの報告が上がったときには驚いたが、自己のデバックが正常に行われていたようで、学者は安堵の息をついた。     
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