きみのねがい

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「おい、清里! 昨日言っといた資料、早く出せ!」 「えっ……あ、あの、それは明日までにやればいいって」 「馬鹿野郎、誰がそんなこと言った!? 今必要なんだから、今出せ!」 「す、すみません、今すぐ作りますっ」 「すみません、じゃねえ! 申し訳ありません、だろ!」  引き攣った顔のひかりが、慌てて「申し訳ありません」と頭を下げた。それを見た上司の男はほくそ笑んで、煙草をふかしながら部屋を出て行く。周りの人間たちは涙ぐんだ目で机に向かっているひかりを一瞥するのみで、声すらかけてやらない。関わりたくない、という意思が透けて見えるようだった。  ひかりが僕のいる地から去って、一年が経った頃。お目付役の女神が祭祀に呼び出されることを知った僕は、その留守を狙って土地から抜け出し、ようやくひかりの傍までやってくることができた。  僕のような特定の土地に留まる神は、こうして遠く離れた地にやってくることはまずできない。離れてしまうと、本来の役割である土地を見守ることができないからだ。  でも、僕はどうしてもひかりの元へ行きたかった。彼女が慣れない土地でどうやって暮らしているのか、誰かに傷つけられてはいないか、気になって仕方がなかったのだ。 「清里さん、可哀想に……部長の発注ミスの責任負わされて、今日土下座して回ってるらしいよ」 「えっ、マジか! 部長、清里さんには特に当たりが強いもんなぁ……あの子も、もっと歯向かえばいいのに」 「そんなこと言うなら、あなたが助けてあげなさいよ」 「無理だよ! 俺も同じ目に遭ったらたまったもんじゃない」  ひかりの同僚たちが小声でそんな話をしているのを聞きながら、僕は今まで感じたことのないほどの怒りを覚えていた。  彼女が勤めている会社は、お世辞にも良い環境とは言えない酷い有様だった。叩けばいくらでも埃が出るような、薄汚い欲にまみれた人間たちが牛耳っている場所だったのだ。  そんな碌でもない人間たちの下で、ひかりは何をやっているのだろう。ひかりの美しい命が、泥水のように汚い人間共に削られていく。千年の長きに渡り現世を見てきた僕でも、顔をしかめたくなるほど忌むべき光景だった。
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