きゆるとき

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きゆるとき

 体が宙に浮かんでいることに気付く。僕はいつの間にやら、ひかりのいた世界とは違う何もない空間に移されていて、周囲でぱちぱちと閃光が走るのをぼんやりと眺めていた。  ひかりは今頃、あの社殿の前で泣いているだろうな。  僕が消えてもなお、あのみっともない顔のまま僕を求めて泣きじゃくる彼女の姿を想像したら、つきんと胸が痛むような気がした。もう身体を失ったのだから、痛みなど感じるはずがないのに。 「目が覚めたか? この、ならず者めが」  声のした方を振り返ると、長い黒髪を結わえた女神が冷たい視線を僕に寄越して立っていた。 「どうも、手間をかけさせて悪かったね」 「相変わらず礼儀がなっておらぬな。だが、その無礼もここまで……潔く消えてもらおう」 「はいはい。とっととやっちゃってよ、覚悟はとうにできてるし」  普段と変わらぬ口調でそう言うと、女神は眉をぴくりと動かしてから顎を上げ、一つの質問を僕に寄越した。 「現世は、どうだった」 「え? どう、と聞かれてもねぇ。あなたの方がよく分かってるでしょう? 小さなことで嘆いて、馬鹿みたいなことで争って、しようのない人間たちがわんさかいたよ。……ただ」  言いながら、ひかりとの旅の中で出会った人間たちのことを思い返す。  現世で過ごしてみたところで、人間は総じて欲深いものだという認識は変わっていない。しかし、その「欲」にも実に様々な種類があったように思う。  誰かの役に立ちたい。  困っている人を助けたい。  旅を楽しんでもらいたい。  受けた恩を返したい。  自分の作ったものを、おいしいと言ってもらいたい。  欲とは汚いものばかりだと思っていたけれど、そんなことはなかった。現に、僕とひかりはそんな見ず知らずの人間たちの「欲」に何度も助けられたのだ。  もちろん、ひかりを追い詰めた人間がいることは事実だし、利己的な欲しか持たない人間もいる。でも、すべてが「汚い」の一言で済ませられるほど簡単なものではないのだと、僕はこの旅で初めて思ったのだ。
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