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なにも考えられなかった。ソファから動かずに、ただじっとしていた。玄関のドアを凛が開けるその瞬間だけを、待ち続けた。
突然の電話。ソファを飛び下り、電話のそばの壁を探って明かりをつける。
凛かも知れない。その一心だった。あせって、通話ボタンを押す手元が狂った。
「もしもし? 凛?」
間があった。電話を切実に見つめて、声を待つ。
「私は凛のマネージャーですが、あなたは?」
俺は息を飲んだ。電話に出たことを後悔しても遅かった。
「……まあ、あなたが誰でもいいです。凛に伝えて下さい。北斗君が遺したものが事務所にあるから、一度連絡をくれと」
喉に詰まった声で、なんとか返事をした。マネージャーは落ち着いた低い声で言葉を継ぐ。
「大きな箱が届いたでしょう、凛はあれをどうしました?」
「分かりません」
俺は正直に答えた。凛はファンレターが詰まった箱を、仕事部屋に運んだ。その後どうしたかは、あの部屋に入れない俺は知らない。
「そうですか、ではまた連絡しますが、伝言くれぐれもよろしくお願いします」
感情を感じさせない声で言うと、マネージャーは電話を切った。
北斗君が遺したもの。
その一言に途端に胸がざわめいた。聞いたら、凛はどんな顔をするだろう。どうするだろう。見たくない。
北斗を求める、冷めた失望のまなざし。つらそうな表情。ひそかなため息。その一つ一つが、かなしく俺を刺した。
俺にも凛を癒せたと思ったのもつかの間、歌を生み出すという厳しい作業に、凛の傷はまた開いてしまった。
だけど。だけど俺は、それを伝えずにはいられない。ぼろぼろに疲れて壊れた凛を救えるのは、きっと北斗しかいないから。
北斗君が遺したもの。
ぐるぐるとその言葉ばかりがそこらじゅうを駆け回る。
北斗君が遺したもの。
いっそ早く凛に告げて、楽になりたい。
凛は明け方近くに帰ってきた。寝ずに待っていた俺は、凛の顔を見るなり「北斗君が遺したもの」のことを言った。
それから三日。凛は曲作りをやめたらしいのに、まだ仕事部屋にこもりっきりだ。
俺を見ない。ふれない。もちろん言葉もない。寝る時は、広いベッドの両端に分かれて眠った。寝つけずに、凛の背中を見つめた。
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