ラブソングを歌え

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 クラブの薄暗い喧騒と人ごみの中に、俺は立ち尽くした。  ついに来た、と思った。この俺が、大久保凛を見間違えるはずがない。  心臓が身体の中でドリブルされてるんじゃないかというぐらいに高鳴って、苦しい。  人ごみの中でも、凛はひときわ目立った。身長百七十五センチの鍛えあげられた身体。ごく普通のTシャツにジーンズ、大きめのブラウンのサングラス。それでも際立って見えるなにかを、凛は持っている。  大久保凛は、デビュー五年目のシンガーだ。ワイルドなルックスに、抜群の歌唱力。心をわしづかみにする、激しくせつなく、豊かで深い詞の世界。  でもなによりも俺が魅せられたのは、瞳。きつく熱く、人の心の奥底まで貫いてしまいそうに、鋭く力のある瞳。 「おい遠山、なにぼんやりしてんだよ。大久保凛のお出ましだろ?」  いきなりバイト仲間に声をかけられて、俺は思わず手にしてたトレイをひっくり返しかけた。 「すげえ顔。ホントに大久保凛のこと好きなんだな」  笑う余裕はなかった。俺、遠山洋は、デビューからずっと凛を追い続けているファンだった。 「ほら、ぐずぐずしてるから他のヤツが案内に行っちまったじゃんか。頑張れよ」   俺の肩をなだめるようにたたくと、そいつは行ってしまった。  凛は今、活動を休止している。  理由は分からない。突然、決まっていたツアーがキャンセルになった。アルバムの発売も無期延期になった。  俺は途方に暮れた。フリーター生活の唯一の楽しみが、凛だった。ライブは何回も見に行くし、テレビや雑誌もしっかりチェックしていた。そんなふうに生活の中心にあったものが、突然目の前から消えた。聞こえてくるのは悪い話ばかりだ。  女優とのスキャンダル。連日の派手な夜遊び。どこの誰かも分からない「関係者」が、大久保凛はもう再起不能でしょう、なんて語っていたりした。  その凛が今、俺が働いているクラブにやって来た。  俺は数年ぶりに呼吸するような気分で、大きく深呼吸した。胸の苦しさが、なかなか消えない。  一目でいいから、凛を間近で見たいと思っていた。無数にいるファンの一人から、特別な存在になれたらどんなにいいか。そう、夢想すらしていた。  実はこのクラブにも、凛が時々来るらしいと聞いたからバイトに入った。凛が本当はどうしているのか、全然分からないから、俺はなんとかして凛が元気でいるのか、確認したかった。
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