ラブソングを歌え

3/29
前へ
/29ページ
次へ
 凛はVIPルームに案内されたようだった。ドリンクを運んだりして、そばに行きたい。でも怖い。  凛にとっては、俺はただのクラブの店員でしかない。だけど俺にとって凛は、ただの客じゃない。ずっと好きだったシンガーだ。ほんの一言が、本当に本当に大切な思い出になる。凛の前で失敗なんかできない。  俺はVIPルームの方を気にしながらも、ぎこちなく仕事を続けた。たぶん、かなり挙動不審な店員になってるだろう。 「なにしてんだ、トイレチェック行ってこい」  フロアマネージャーに言われて、俺はほとんど機械的に、二時間ごとにやっているトイレチェックに向かう。 「おい」  流れている曲にまぎれて、声がした。つい、びくりと肩が震える。 「おい、ちょっと待ってくれ」  凛の声だ。少しかすれた、背筋を心地よくざわめかせる、艶のある声。間違いなく、凛の声だ。  俺の貧弱な肩を、大きな手のぬくもりが包む。  動けなくなった。凛が、俺に声をかけてくれた。凛が、すぐ後ろにいる。俺は唇をかみしめた。 「こっちを向いてくれないか」  声と同時に、肩に置かれていた手に力がこもる。制服のベスト越しに、俺は凛の長い指をはっきりと感じた。  トイレへと続く細い廊下の、煙草の自動販売機の横。凛は、俺を見つめた。まっすぐに。どこか泣きそうにも見える瞳で。  憧れ続けた瞳から、俺はすぐに目をそらしてしまった。恥ずかしい。身体が熱い。逃げ出したい、とすら思った。  凛の唇が、目の前でかすかに動いた。俺の左肩に置かれた手が、そっと動く。 「……あ、あの……」  凛の手が、俺の頬を包もうとしている。  そう感じて、俺はどうしようもなく苦しくて、やっとの思いで声を出した。 「名前、は……?」  乾ききった、緊張を感じさせる声で凛が言う。 「……遠山洋、です」  俺の声もからからだった。手にはじっとり汗をかいてる。凛は俺の名前を聞くと、表情を優しくゆるめた。どこかほっとしたようにも見える。 「ごめん、すげえ好みのタイプだったから」  さらりと言い、サングラスを外す凛。  俺は壁に背中を預け、凛の胸元で揺れるシルバーのネックレスを呆然と見た。 「俺のことは知ってる?」  うつむきっぱなしじゃ、悪い印象を与えてしまうかも知れない。俺は思いきって顔を上げ、精一杯きれいに笑いかけようとした。 「もちろん。大久保凛でしょ?」
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

54人が本棚に入れています
本棚に追加