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凛はVIPルームに案内されたようだった。ドリンクを運んだりして、そばに行きたい。でも怖い。
凛にとっては、俺はただのクラブの店員でしかない。だけど俺にとって凛は、ただの客じゃない。ずっと好きだったシンガーだ。ほんの一言が、本当に本当に大切な思い出になる。凛の前で失敗なんかできない。
俺はVIPルームの方を気にしながらも、ぎこちなく仕事を続けた。たぶん、かなり挙動不審な店員になってるだろう。
「なにしてんだ、トイレチェック行ってこい」
フロアマネージャーに言われて、俺はほとんど機械的に、二時間ごとにやっているトイレチェックに向かう。
「おい」
流れている曲にまぎれて、声がした。つい、びくりと肩が震える。
「おい、ちょっと待ってくれ」
凛の声だ。少しかすれた、背筋を心地よくざわめかせる、艶のある声。間違いなく、凛の声だ。
俺の貧弱な肩を、大きな手のぬくもりが包む。
動けなくなった。凛が、俺に声をかけてくれた。凛が、すぐ後ろにいる。俺は唇をかみしめた。
「こっちを向いてくれないか」
声と同時に、肩に置かれていた手に力がこもる。制服のベスト越しに、俺は凛の長い指をはっきりと感じた。
トイレへと続く細い廊下の、煙草の自動販売機の横。凛は、俺を見つめた。まっすぐに。どこか泣きそうにも見える瞳で。
憧れ続けた瞳から、俺はすぐに目をそらしてしまった。恥ずかしい。身体が熱い。逃げ出したい、とすら思った。
凛の唇が、目の前でかすかに動いた。俺の左肩に置かれた手が、そっと動く。
「……あ、あの……」
凛の手が、俺の頬を包もうとしている。
そう感じて、俺はどうしようもなく苦しくて、やっとの思いで声を出した。
「名前、は……?」
乾ききった、緊張を感じさせる声で凛が言う。
「……遠山洋、です」
俺の声もからからだった。手にはじっとり汗をかいてる。凛は俺の名前を聞くと、表情を優しくゆるめた。どこかほっとしたようにも見える。
「ごめん、すげえ好みのタイプだったから」
さらりと言い、サングラスを外す凛。
俺は壁に背中を預け、凛の胸元で揺れるシルバーのネックレスを呆然と見た。
「俺のことは知ってる?」
うつむきっぱなしじゃ、悪い印象を与えてしまうかも知れない。俺は思いきって顔を上げ、精一杯きれいに笑いかけようとした。
「もちろん。大久保凛でしょ?」
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