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白河学長
「新歌人協会こそ、その陋習を断つべき、日本社会に新たな布石を為す希望の灯よ。正論や実力が素直に認められる、あるべきオーガニゼイションだわ」などと宣言していた。事実院政出版の短歌誌「白菊」に短歌評論と短歌三十首を梅子はすでに応募していたのだった。しかし本来これは決して許されることではなかった。なぜならこれに立ちはだかるであろう旧来の老舗、歌人協会の会長が、他ならぬ白河女子大の学長にしてオーナー、白河征司その人だったからだ。梅子は白河学長その人は自説にもかかわらずなぜか嫌いではなかったが、如何せん後に彼の本音と睨んだ歌人協会の体質に対しては身震いがするほど嫌で、肯じかねていた。大体彼の学校経営方針と歌人協会のそれは甚だしく矛盾しているではないかと梅子には思われた。アメリカ姉妹校への留学とМBI取得を売り物にした、また企業とタイアップして実際的且つ効果的な学業を目指すとする大学に共鳴し、一流大学へ入れる学力を持ちながら敢てそれを蹴って、特待生として梅子は白河女子大に入学していたのだった。もとより和歌が好きで(歌はうまいとは思わなかったが)歌人としてまた歌人会会長としての白河の名前を知っていたからこそのことでもあった。現代的且つ合理的な学業方針と伝統的な和歌の精神を両立させる姿を粋とも捉えていた。実際のところ企業とタイアップするという白河の経営方針は当たり、大学乱立とそれゆえの学生数確保難の中にあっても学校経営に困ることはなかった。ちょうどそれは奇しくも同名となる古の彼の白河上皇が、摂関家から権力を奪って院政を敷くに至る過程とよく似ていた。上皇は台頭する受領階級を、また亜流に過ぎなかった下位貴族たちを北面の武士や院近政の面々としてそれぞれ登用し、荘園主として私腹を肥やし続けていた摂関家を始めとする有力貴族たちから、天皇直轄領としてその班田を取り戻し天皇親政を実現したのだった。都に屋敷を構えて実際的な荘園管理を怠っていた貴族たちの足元をすくったのである。彼の西行法師こと佐藤義清も、またのちの天下人たる平清盛もその典型的な受領階級、就中北面の武士の出身者である。語弊があるが現代の若者、就中学生たちを入学金や授業料を奉納する古の班田農民たちとすると、その獲得方法に於いて白河学長は優れていた。旧来の名門として胡坐をかいていた国公立大学などから学生たちを奪ってみせたのである。
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